夜。
春日家の一室では、ぎこちないキーボードの音が響く。
「はあ・・・・」
上手くいかない。
特に今日は一際上手くいかない。
練習しないととつい先日心持を固くしたのに、その直後に先生(棗)から練習すんなと言われて、迷う心理が練習姿勢に現れているのだ。
「紫希ちゃん?開けるよ?」
「あ、はい!」
振り返ると、もう自らが寝る支度に取りかかっているのだろう、エプロンを外した母、雪乃が居た。
「今日は後どれくらい弾く?」
「あ・・・もう、終わります。おやすみなさい。」
「そう・・・・」
「・・・お母さん?」
「ねえ、紫希ちゃん?」
「?はい。」
「お母さん、余計なお節介かなって思うんだけど・・・紫希ちゃん、最近根を詰めすぎじゃないかな?顔色があんまり良くないよ?」
「・・・・」
ぐ、と言葉に詰まる。
自覚はある。十分に。
「なんだか表情も疲れてるし・・・もしなんなら、ちょっとだけお休みしても罰は当たらないんじゃないかなってお母さんは思うの。どうかな?」
「・・・・でも、文化祭が近いですから。」
そう返す紫希の目の色に、あくまで折れる気がないことを雪乃は感じ取ったようだった。
「・・・わかった。でも、夜更かしはほどほどにね?」
「はい。おやすみなさい。」
「おやすみ・・・・」
自室に力なく消えていく娘を見送って母がそっと溜息をつくと、父の真がいつの間にか背後にいた。
「母さん。」
「あ・・・お父さん。」
「紫希はあんまり調子が良くないのかな?」
「うん・・・上手くいってないみたい。」
「ふうん?俺は十分上手いと思うけど。」
「始めたてよりは上手いと思うよ?でもやっぱり、普通程度まで弾けてるかっていうと・・・」
「下手なのかあ。」
ふうん、なんていう父はどこか呑気である。
その呑気さが良いところでもあるのだが。
「でもああいうところ、母さんにそっくりだ。」
「えっ!?」
「大人しそうなのに、こうって決めたら頑固で強情でさ。気分転換が下手なんだよね。」
「うう・・・直そうとしてるんだけど・・・」
「あはは!良いんだよ、直さなくて。そこが母さんの良いところで・・・紫希の良いところでもあるよ。」
「お父さん・・・・」
どうも行き詰っているらしい娘。
早く山を越えられると良いと、両親は信じている。
「はあ・・・・」
自室に戻ってまた溜息。
そういえば最近溜息が増えた。
『様子見つつになるけど、当分俺の指導は無しなw』
『自主練は止めない・・・っつうか止めさせられないけど、まあ控えめにって事でw』
『作詞も読書もなるべく止めとけよw』
『ちょっと活動から離れてさwリフレッシュリフレッシュw』
『頭空っぽにして、何か楽しいことしなよw』
そう棗に言われたものの。
やっぱり気になって気になって。
(楽しい、事・・・・)
なんだろう、楽しいこと。
いや、楽しいことは見つけられるけど、キーボードの件を忘れられるかといわれると怪しい。
気にすまいと思えば思うほど気になって。
(兎に角今日は、ちょっと早いですけどもう寝てしまいましょうか・・・でも、こんな状態で眠れるかどうか・・・寧ろいつもより寝られない気が、)
ブ、ブ、ブ、ブ、ブ。
ブ、ブ、ブ、ブ、ブ。
思考を遮ったのはスマホの振動音だった。
これは電話の時。
この時間ということは、紀伊梨か千百合かなと思いながらスマホの画面を見る。
「・・・え、」
発信者、丸井。
「・・・はい、もしもし。」
『あ!良かった、出た。もしもし?』
本当に丸井だ。
いや、当たり前だなんだけど。
(な・・・なんだかちょっと、電話は初めてなので緊張します・・・)
別に誰も見てないのに、ベッドの上で居住まいを正してしまう。
『起こした?』
「いいえ。」
『そっか。今大丈夫?』
「はい、大丈夫です。眠れなかったところだったので嬉しいです。」
暇だなんて理由で迷惑かな、と思うから自分からかけたり出来ないけど。
眠れない夜に電話だなんて、正に自分には渡りに船。
『眠れなかったの?』
「はい・・・ちょっと。でもそれは良いんです、こっちの話ですから。」
『・・・こっちの話、ね。』
「丸井君?」
『いや?そうそう、それで用事の方なんだけどよ。』
「はい、何でしょう?」
『大した事じゃねえんだけど、今日の試合さ。一条が来てたんだろい?』
「えっ?」
『え?居たよな?』
「ええ、居ましたけど・・・どうしてご存じなんですか?」
郁は来てることがばれないように、細心の注意を払っていた筈なのに。
と思っている紫希は、S3でその場を棗と抜けたので事の顛末を知らないのだ。
『いや、彼奴学校戻って来てたから。』
「えっ!」
『なんか友達のマネジ?林ってのと一緒に帰ろうとして戻って来たけど、その林がもう帰っちまっててよ。』
「ええ・・・ああ、そう、だったんですか・・・」
『知らなかった?一緒に観戦してたんだろい?』
「あ、いえ・・・そうなんですけれど、絶対にばれたくないと仰ってたので、そんな何もかも知られているとは・・・」
見かけられていたとかかと思ったら、まるで筒抜け。
電話の向こうの丸井が、ぷはっと噴き出したのが聞こえた。
『彼奴そんな事言ってたのかよ?』
「はい。」
『ははは!結局全部バレてんじゃん、結構抜けてんな彼奴も。』
「ううん・・・でも残念でしたね。折角学校まで戻られたのに・・・」
『まあ、それはな。ま、連絡入れとけって話だけど。』
「されてなかったんでしょうか?」
『すんの忘れてたっつってたぜ?』
「忘れ・・・そう、なんですか・・・?」
そこ忘れるって、ある?
と、紫希もやっぱり思った。あんなにばれたくないと言ってたのに。
(いえ、でも・・・本人がそう言ってるわけですし、他に理由も多分ないですから、本当に忘れてしまったんですよね・・・?)
『それでさ。観戦してたっていうから、感想は?って聞いたら春日さんにでも聞けば良いだろーとか言うんだよ。』
「私に?」
『そ。どうだった?』
どうだったか。
と言われると、紫希はつい顔が綻ぶ。
「正直に言うと。」
『うん。』
「すっごく感触は良かったですよ。本当に一生懸命見てくれてました。すごい、早いって何度も言ってましたし。」
『マジ?』
「はい!」
『おし!』
丸井の嬉しそうな声音に紫希は尚更嬉しくなる。
電話の向こうでガッツポーズしているのが見えるようだ。
『でも、それならそうって言えば良いのにな。春日さんに聞けとか言うから、何事かと思ったぜ。』
「あはは・・・ちょっと、素直にそう言うのも今更気まずいみたいな所もあるんじゃないでしょうか。引っ込みがつかないというか・・・」
『ま、わかんねえでもねえけど。』
ただ、丸井的には引っ込みがつかないとかそんな事態になる前に、そもそもあんなトゲトゲしなくて良いじゃんと思うのだが。
よくわからない、あの思考回路。
『でもま、テニスってすげえって思ってくれたんだったら前進だな。』
「はい。大きな一歩だと思います。」
『このままマネジになってくんねえかなー。』
「お忙しくなりますものね。全国に向けて。」
『おう。でも、そっちはそっちで大変だよな。フェスあるし。何かあれだろい?黒崎が今日、熱中症で倒れたって聞いたぜ。』
(あ・・・・)
「・・・あれは。私の、せいで・・・」
『は?熱中症が?』
「その・・・キーボードの件で棗君に負担をかけてしまってて。疲労が溜まっていて・・・」
『ああ、そういう。んー・・・でもそれはお前が悪いわけじゃなくねえ?』
「いえ、でも、」
『無理なら無理って言えば良いんだよ。出来るって思った結果出来ませんでしたってのは、本人の処理能力の話だろい。』
(棗君と同じ事言う・・・・)
『春日はさ。やります出来ますって一回言ったら、ぶっ倒れるまでやりそうな感じするけど。』
「え!いえ、そんな事は・・・」
『ない?』
「・・・あります、けど・・・」
『ははは!だろい?でも、お前みたくする奴の方が世の中少ねえと思うぜ。無理な時は無理だから、っつってやる事減らしにかかるのが普通なんだよ。』
こういう時は、つい人間は「自分ならどうするか」を考えてしまう。
自分が無理する性格だから、他人も同じように色々無理してるのではないかと知らず知らず考えてしまうのだ。
『だから、別に自分のせいとか考えなくて良いって。』
「そう、でしょうか・・・」
『そうそう。それより、キーボードさっさと上達した方が彼奴の為だろい。』
「・・・・・」
『あれ?春日?』
「そう、ですよね・・・」
『・・・もしかして、あんまり進んでねえ?』
「はい・・・・」
『マジ?』
もう本当、丸井の言う通りでしかない。
さっさと上達、それが一番棗やビードロズの為なのに。
『もしかして眠れねえって、』
「はい、その事で・・・あんまり進まないものですから、棗君から気分転換をしろと言われて・・・バンド絡みの事をしないで忘れて、楽しいことだけしていろと言われて。でも・・・」
『・・・気になる?』
「はい。」
『今出来てねえもんな。』
「はい・・・」
『別に気分転換したって、それで上達するわけでもないし?』
「丸井君、どうしてそこまで分かるんですか?」
エスパーかと思うほど、丸井は紫希の考えをぴたりで言い当ててくる。
頭の中を覗かれてる気分だ。
『・・・・・』
「丸井君?」
『・・・いや、何でもねえよ。で?何だっけ、楽しいこと?』
「あ、はい。でも難しくて・・・」
『まあな。でもほら。もうすぐうってつけの事があるじゃん?つっても、もうちょい先だけど。』
「うってつけ・・・?」
『夏休み♪』
「あ・・・」
そうだ。
色々あって頭がパンパンだったが、もうそろそろ学校の終わりが近づいてきている。
『もういっそ、夏休みの間中遊びまくってみるのも良いんじゃねえ?』
「出来ません・・・」
『はは!ま、春日は出来ねえだろうな。』
「得意じゃないんです・・・」
『頑固だもんな。実は。』
「ごめんなさい・・・」
『なんで?俺はお前のそういう所良いと思うけど。ま、こういう時は裏目に出ちまうけどさ。』
「うう、はい・・・」
『お前、今日みたいな日も帰ってから自主練してそうだよな。』
「・・・・・・」
『あ。してた?』
「はい・・・」
電話の向こうでまた笑い声がした。
別に笑われて不愉快とかそういうのは無いけれど、何かこうここまで言い当てられると恥ずかしい。
(私ってもしかしてわかりやすいんでしょうか・・・)
『ま、あんまり無理すんなよ?お前まで倒れちまうぜ。』
「はい。」
『それこそ体力残しとかねえと、夏遊べなくなっちまうし。』
「そ、それは嫌です!」
『だろい?だからさっさと寝ろい。』
「・・・・はい。」
『って言っても、じゃあっつってさっと眠れるわけもねえから。』
「・・・はい?」
『もうちょっと喋る?』
「えっ?」
『眠れねえんだろい?』
「そうですけど・・・」
確かに最初そう言ったよ。言ったけどさ。
「でも丸井君はお疲れなんじゃ・・・」
『別に?俺は試合してねえし、ほら。明日は久しぶりに休みの日曜日だから、多少夜更かししても大丈夫だって。』
「そう、ですか・・・?」
『嫌?』
「いえ!嫌なんじゃなくて、だから、その・・・」
ぎゅ、とスマホを持つ手に力が入る。
こういう事を人に頼む時は、いつだって緊張する。
頑張れ。頑張れ。
「・・・丸井君が、ご迷惑じゃないのなら・・・もうちょっと、お付き合いして頂いても良いですか?」
『おう、良いよ。』
(やった・・・!)
はあ、と安堵の溜息。
良かった。
「有難うございます。本当のことを言うと、ちょっと寂しくて。」
『ん?悩んでる時一人だと心細い的な話?』
「そうじゃないんです。その・・・今日、試合を見たらその後は学校に戻る予定でしたけど、結局棗君と私は帰っちゃいましたから。顔が見たかったですよね、って棗君と話していたんです。」
勿論、棗に恨み言とかそういう事言う気は一切ない。
ないけどそれはそれとして、駄弁りながらわちゃわちゃ帰れると思ってたのになーwと力なく笑う棗に紫希は同意しながらちょっと寂しいと思った。
「また週明け学校に行けば、会えるんですけど。それはわかってるんですけど、その・・・」
『ああ、分かるぜ?当てが外れるとちょっとがっかりするよな、そういうの。』
「はい・・・」
『ま、だから電話しちまったってのもあるんだけど。』
「はい・・・え?」
『俺も春日の声聞きたかったから。』
トン、と微かに大きくなった胸の音は、小さすぎて自分では聞こえなかった。
だからこんなに、軽やかに返せたのだと思う。
この時は。
「嬉しいです。私も、丸井君の声が聞きたいと思ってましたから。」
『・・・そっか。別に、一条の感想どうだった?とかってLINE、で、聞くだけでも・・・・っと!良かったんだけど。ふう。』
「どうされました?」
『いや、長電話するんだったらさ。お供が要るだろい?』
「お供?」
『お菓子。蓋開けたとこ。』
ちらっと時計を見る。
現在時刻、23時10分前。
『春日も何か食う?待ってるけど。』
「いえ、良いです・・・そんな勇気が出ないので・・・」
『はははっ!別にそんな多少の事で太ったりしねえって。』
「多少には思えません・・・!」
『そんな事言ったって、夏になったらどうせ食うことになるんだぜ?あのー、ほら。パジャマパーティー?とかするって言ってただろい?』
「で、ですからその時に備えたいんです!」
『そお?運動した方が早え気もするけど。あ!そうだ、またテニスしねえ?こないだ楽しいって言ってたじゃん?』
「あ!それは良いかもしれないです。」
『ただ、暫くは俺殆ど付き合ってやれねえけど。全国までスケジュールきついし。』
「いえ、良いんです。皆、夏は慌ただしいですから。」
『この前行ったところだったら、あのおっさん2人が又相手してくれっかもだけどな。』
「でもご迷惑じゃ・・・というか、そんなお年でしたっけ?」
『そういやそうか?あの2人、自分のことおっさんおっさんって自称してたから。』
「ああ、イメージでおじさんになってしまってる気はします。」
『幾つくらいだっけ?』
「ええと・・・20代後半?位でしょうか?」
『おっさんってどこからどこまでがおっさん?』
「・・・30、後半辺りから?でしょうか。私的には。」
『30のラインはもうおっさんじゃねえ?』
「早くないですか?」
『早えかなー。ま、真田辺りは20でもうおっさんの貫禄出してそうだけど。』
「怒られますよ・・・」
『オフレコでシクヨロ♪』
明日日曜日だから。
時間があるから。
お互いにそう思ってるから、どんどん逸れていく話を双方止めもしない。
結局眠ったのはここから2時間後。
元来早寝早起きな筈の紫希が、丸井の想定より大分早く睡魔に襲われた頃だった。