ざぶん。
という音を最後に、耳にはもうほぼ何も聞こえなくなる。
壁を蹴って、水中をぎゅんと勢いよく進むと水の抵抗を感じる。
全身冷たい。
気持いい。
「ぷはっ。」
「・・・・・・ぷはっ。」
「・・・・・・ぷっ、」
千百合は泳ぐと決めたのならクロールに限る派である。
早いし。平泳ぎの方が楽なのだが、スピードがクロールに劣るのでさっさと泳ぎおおせるという意味ではやっぱりクロールが良い。
(こんなにちゃんと泳いだのいつぶりだろ。)
結構しんどいぞ、と思いながらターン。
ごぼ、と水の音がして、顔に泡が当たる。
普段の授業でもこんなにちゃんと泳がない。
テストにしたって、別に遅いって評価になってもどうでも良いし。面倒だし。
って手を抜いてやってた反動だろうか。
「ぷはあっ!はあ、はあ・・・」
「お帰り。」
「ただいま・・・」
「どうだい?」
「しんどい。何か・・・普段使ってないとこ使ったなって感じがしてる。」
「ふふ。良いことだよ、やっぱり偶にはそういう事もしなくちゃね。」
「マジでそう思う。」
壁に手をついて、ふうと息を吐いて呼吸を整えた。
どうしようかな。
もう一回泳ごうかな。
しんどいけど、それした方が良いような気はとてもする。
もう一回クロールかな、敢えて平泳ぎを全力でやってみるっていうのも・・・なんて考えていると、隣のレーンからドボンと水の音がする。
「精市も泳ぐの?」
「うん。何だか、千百合を見てたら泳ぎたくなって。」
「・・・・・・」
「うん?」
「・・・競争する?」
「えっ。」
幸村は素で面食らった。
千百合もそれは無理ないと自分で思う。
普段滅多に勝負事なんて持ち掛けない。特にこんな、勝ったから負けたからと言ってさして意味のないお遊びの勝負は。
「どうしたんだい?珍しいね。」
「いや理由は特に。なんとなく。」
「あはは、そうか。良いよ、やろう。ルールは?」
「えー・・・クロールであっちまで。」
「往復はしないんだね?」
「長引いたら私ジリ貧だから。」
身体能力は幸村の圧勝なのだ。
勝ちの目があるとしたら、短期決戦しかない。
「分かった。じゃあいくよ、用意・・・」
ドン、の声を微かに聞きながら千百合は潜って壁を蹴った。
(多分負けるだろうなー。)
バシャバシャ派手に水しぶきを上げて泳ぎながらも、どこか冷静な頭で千百合は考えた。
かっこ悪いから言い出さなかったけど、ぶっちゃけ何かハンデを負ってもらっても良かったと思う。多分それで初めて良い勝負まで持っていける。
この状態ではまあ負けるだろう。
でも千百合はそれでも良いと思った。
勝ちたいから競争しようと言い出したわけじゃない。
ただ。
(あ。)
息継ぎした時に、幸村が立っているのが一瞬見えた。
早い。
いや、もともと25mだからあっという間なんだけど、それでも早いぞおい。
「ぷは!はあ・・・」
伸ばした手が壁についた。
その場で足を下して立つと、幸村は顔の水を軽く拭いながらすっかり整った息で千百合を待っていた。
「俺の勝ち。」
「早いわ。」
「あはは!お疲れさま。」
幸村はそのままプールから上がって、千百合に手を貸してくれた。
自分の手はびしょびしょなのに幸村の手はちょっと乾いていて、やっぱりそこそこの差を付けられてたんだなあという事を改めて実感する。
「あーあ、負けた負けた。」
「でも、良い勝負だったよ?」
「慰めは良いですー。」
「違うよ、本当だ。正直、もう少し差を開けると思ってたんだよ。」
もう十分開いてたと思うが。
(まあ勝てるとはほぼ最初から思ってなかったけどさ。)
「・・・ねえ。」
「ん?」
「今の勝負、本当に理由はなかったの?」
「ないよ。」
「そう。いや、良いんだ。ただ本当に珍しかったから、ちょっとだけ気になってね。」
「・・・強いて理由を言うなら。」
「うん。」
「やった事なかったから。」
「え?」
「精市、私にこういう遊び持ち掛けてこないじゃん。」
棗とかには昔から言ってたし、中学上がってからちょくちょく部員に対してちょっとした勝負を持ちかける事があるのも千百合は知っている。
でも千百合には振ってこない。
付き合う前からそうだったし、付き合い始めてからも振ってこない。
せいぜい皆でゲームしたりとか、大人数でわーっと競ってる時だけ。
そりゃあどんなジャンルの何にしても、大概の勝負でこの男に勝てるとは端から思っていないけど、偶にはこういう風に遊んでも良いんじゃないかな。
とかふっと思ったのだ。
「そうだったんだ。」
「そうだけど何を笑ってんの。」
「嬉しくて。ああ、千百合を負かしたのが嬉しいんじゃないよ。俺も、こういう遊びをやってみたかったから。」
「そうなの?」
「ふふっ!うん、そう。」
テニスの場を離れたら年相応の顔をちらちら覗かせる幸村は、実は心の中にずっとこういう軽い勝負を千百合とやってみたいという気持ちがあった。
この間のゲーセン中二少女事件の時みたいな、○○を賭けたガチンコ勝負!カーン!ファイッ!みたいなのじゃなくて、もっと軽い気分でどっちが出来るか競争しようと言って、勝ったー。あーん負けたー。面白かったねー。で終わるような感じの奴。
ああいうのっていっぱしのカップルっぽくて良いなあと思っていたけど、でも自分達には向いてないかなあとも思っていたのだ。
そもそも千百合が勝負だのなんだの面倒くせ。なタイプだし、それにこう言うとなんだけど大抵の勝負で自分は勝つ。
やろうぜやろうぜって誘っておいて自分が勝っておしまいって、お前それはちょっとどうなんだと自分でも思うし。かといってハンデと言うとそれはそれで気を悪くするんじゃないかと思うし。
だからこうして千百合から言い出してくれるなんて、かなり嬉しい誤算。
「早く言えば良かったのに。」
「何度か言い出そうかなって思ったこともあるよ。でもほら、千百合は好きじゃないと思ったんだ。」
「そうだけど、逆に誰かから勝負しよとかって言われて私が「えー」って返事しないのなんて精市くらいなんだから。私が言うのもあれだけど、試しに言ってみるくらいしても良かったのに。」
「・・・・・」
「何?」
「ううん。今少し、試合に勝って勝負に負けた感じがして。」
「?」
何の話してるの、な顔で自分を見てくる彼女のことが幸村は可愛くて仕方がない。
本人は本当に思ったことを何の気なしに言ってるだけなんだろう。だから恥ずかしがりもしないで、さらっと言えるわけだ。
それがまた可愛い。なんだか相手の無意識下に自分が居る気がして。
「ひとしきり泳いだら、何か飲みに行こうか。暑くないとはいえ、運動してるから水分は取らないとね。」
「あー。言われたら何か喉乾いてきた。」
「俺が出すから、何が良いか考えておいて。」
「逆じゃね。私負けたんだし。」
「勝負に負けたのは俺の方だから。」
「だからそれが意味が分からないんだってば。」
「ううん、じゃあ勝者の言うことは聞いてね、って事にしておくよ。」
こうなると幸村は曲げない。
千百合は諦めの境地で、やっぱりお茶が良いなとか考えるのだった。