「ふいいいぃぃぃぃ~・・・・」
午後。
また借りたホールに閉じこもり、紀伊梨は大きく息を吐いた。
「お疲れ様でした、紀伊梨ちゃん。大変でしたね・・・」
「本当だよー!紀伊梨ちゃん超頑張ったんだよ!本当だよ!あーん、一旦はいけたと思ったのにな~・・・」
「ま、頑張ったんじゃないの。完全にバレるとこまでいかなかっただけラッキー、くらいに思っておけば。」
「いや実際紙一重でしかなかったと思うわwマジお疲れw」
いつもはよく紀伊梨に馬鹿とか言う千百合も、流石に今回は一概にお前が馬鹿だからとは言えない。
声を出しちゃいけない、というのは結構大きいハードルだ。
会話をするのも勿論だが、例えば独り言とか他の人と話してる声を聞かれてもアウト。勿論顔を覗き込まれてもアウト。挙動不審に思われるのもなるべく避けるべき。
例えば紀伊梨がそうなってしまったように、エレベーターの周辺でかち合ったら、何階ですかとかお先にどうぞとか、そんなやり取りすらもしてはいけないのである。
「まあ特にwお前は黙っておくのが下手だからw」
「うにゅー!紀伊梨ちゃんこーいうの苦手~!」
「ま、あんた目立つからね。」
「そうですね。紀伊梨ちゃんは普段、普通に歩いてても振り返られちゃいますから・・・」
目立つ奴は大変ねえ。
なんて千百合は思いながらベースをかき鳴らした。
「つうか、お前も早く個人練始めろや。」
「んー、もちょっときゅーけーしたいー・・・」
「起きろw」
「紀伊梨ちゃん、17時までしか居られませんから・・・」
「あ!そだった、今日は寝る前の練習出来ないんだ!アンプ、アンプ!」
慌ててギターの準備を始める紀伊梨を横目に見つつ、千百合は小さく溜息を吐いた。
バレるバレないとは別に、シンプルに面倒くさい。自分達以外の人間がいる場所で気を張ってなくちゃいけないというのは。
まあいつものメンバー以外は自分をあまりよく知らないだろうから多少の事ではばれないと思うし、いつものメンバーの目だって誤魔化せるレベルの変装ではあるけど。
ああでも。いつものメンバーと言いつつ、幸村達三強には話が通ってるんだっけ。
「・・・・・・・」
今、絶対自分が一生しないと思ってたような格好してるけど、幸村は気づくだろうか。
気づいてもおかしくないなと思うけど、逆に流石に気づかないんじゃないとも思う。
後はまあ。
気づいてくれないかなという気持ちとか。
(・・・まあそもそも鉢合わせするのがレアケースだしね。)
そんな気にしなくても良いか。
と思って千百合は思考を練習に切り替えた。
のに。
「マジか。」
千百合はポツリと呟いた。
飲み物が足りなくなって、近くのスーパーに向かう途中、今立っている此処。
赤信号の横断歩道の前。
その向こう側に居るのは、幸村と真田と柳。
更にその後ろに先輩が数人。全員立海ジャージを着ている。
(うぜえなー、後ろのテニス部居なかったらバレても良いのに。)
舌打ちをする。
今は距離があって聞こえないからこういう呟きとか舌打ちも聞こえないけど、問題はすれ違う時。
(どっか近くに別の横断歩道・・・ないか。暑いからあんまりうろつきたくもないし。)
仕方がない。すれ違おう。
何、すっと行けば良いのだ、すっと。
一瞬すれ違うだけ。ただそれだけ。
(しれっと行け、しれっと・・・)
より顔を隠すために、千百合はスマホを取り出す。
普段は歩きスマホなんてしないけど、今はらしくない行動をすればするほど良い。
実際画面なんて見てないし、ぶつかったり転んだりしない自信もある。
信号が青に変わった。
(おし、行くぞ。)
千百合は歩き出した。
向こうも歩き出す。
幸いというか、あっちもあっちで何かしら話し込んでいるようで、あまり周囲に注意しているようには見えない。
良いぞ良いぞ。
このままこのままー・・・・
「おい!」
またお前かのため息を飲み込んだ自分を千百合は褒めた。
真田弦一郎。曲がった事は許しておけぬ男の名前。
それが例え全く見知らぬ少女でも関係はない。
「横断歩道で歩きスマホをするな!周りの迷惑に・・・おい、聞け!止まらんか!」
「さ、真田!」
「おい、待て待て!」
千百合は迷う。
どうしよう、これ無視して良いのか。でも止まらないと却って面倒かな。
後ろで先輩らしき声が真田を制止してくれてるのが伺えるけど、果たしてそれで真田を止められるか。ええい、これだから真田は。
「待てって!」
「何故です!あのままでは他の歩行者の迷惑や事故に繋がり、」
「そうだけど!でもそれはそれとしてだな、」
「弦一郎、行こう。」
「いや!俺は彼奴に歩きスマホを辞めさせるまでーーー」
「真田、気持ちは分かるが、」
「弦一郎。」
千百合は足を止めかけた。
幸村の冷えた声は、自分宛じゃなくても怖い。
「・・・・しかし、」
「兎に角渡ってしまおう。直信号も変わるし、さっき見えたけど彼女は地図を見ていたよ。歩きスマホは良くないけれど、道に迷わないためにはある程度は仕方がない。」
「・・・・・!」
横断歩道を渡り切って、千百合は足を止めた。
自分は地図なんか見ていない。
ゆっくり振り向くと、先輩に背を押されてしぶしぶ進む真田と、なるべく千百合を視界に入れないよう位置取っている柳が見える。
そのさらに後ろ、一番後ろを歩く幸村は、ゆっくり振り返って千百合と目を合わせた。
「ごめんね、友人が迷惑をかけて。気にしないでくれ。」
そう言って微笑んで、軽く手を降って幸村も横断歩道を渡り切った頃、信号は赤に変わりまた車が走り出した。
「・・・・・」
今のはなんだったんだ。
バレたのか。いや、微妙。
(そもそもこの格好で私だって判断つかないと思うし。地図見てたっていう嘘も、精市だったら場を流すためにそのくらいの小さい誤魔化しはしそうだし。最後の挨拶も、深読みしようと思えば出来るけど、普通といえば別に普通だし・・・)
「・・・・良いか。」
まあ良いや。
取りあえず難は逃れたし、誰にも気づかれなかった事にしておこう。
多分幸村も分からなかっただろうし、幸村以上に真田と柳は気づかなかったに違いない。
千百合はまた、夏の日差しの下を歩き出した。
「・・・・・・」
『ごめんね、友人が迷惑をかけて。気にしないでくれ。』
あんな風にさあ。
さらりとスマートに嘘を吐いてこっちを逃がしてくれて、恩にも着せず爽やかに微笑んで手を振って。
そういう所なんだよ。
そんなんだからモテるんだよ。
今偶々自分だったけど、これが本当に見ず知らずの通りすがりの少女だったら、間違いなく幸村に淡い片思いをするようになると思う。そこまでいかなくても、何今の人かっこいい!とか思われるだろう。
(・・・ああいうの辞めろって止めた方が良いのかな。)
モテる奴の彼女って面倒だなあ。
手でちょっと整えたグラサンの下の目元は、僅かに赤い。