2人で帰りたい。
千百合からそう切り出された時、幸村は喜びより緊張が走った。
一瞬は純粋に嬉しかったが、千百合の表情は全く甘い時間を期待しているそれではなかった。何か話があっての誘いである事はその時点でもう分かる。
案の定、寄り道しようかと言ったら千百合は即頷いた。
行きたい所はあるかと尋ねると、千百合はどこでも良いと言った。
でも、どこでも良いと言いつつ今日は観戦していて疲れているだろうから、幸村は頭の中から長居しても良い所を検索して弾き出した。
そして、今そこへ向かっている途中。
「改めて、今日はお疲れ様。見に来てくれて有難う。」
「それは別に。私試合してないし。」
「それでも疲れるよ。今日も暑かったしね。」
「精市、疲れてないの。」
「俺はなんていうか・・・多少は疲れてるんだろうけど、今は気にならないかな。自分で感じられないというか。」
「そう。」
こういう時。
こういう場面で、無理に空気を明るくしようと頑張らない幸村が、千百合は好きだった。
人によっては今みたいな時、いやあ夕食食べたら食べながら寝ちゃうやつだなあ、あっはっはみたいな事を言うタイプが居る。
それが悪いとは言わないが、千百合は個人的に好きじゃなかった。
それよりも、こうして黙ってお互いの考えてることを感じている時間の方が、千百合は好きだった。
そうこうしている内に、2人は目的地に着いた。
「此処・・・」
「着いたよ、行こう。」
「入って良いわけ。」
「大丈夫だよ。確認も取ったことがあるし、多分ちらほら他の人も居るから。」
そこは大きい庭だった。
そして、見るからにビジネス用の大きいビルに併設されている。
これってビル利用者用の庭なんじゃないのか、と千百合は一瞬びびったが、幸村はここの庭が一般に解放されている事を知っていた。
(外なのに涼しい・・・ああ、ミスト付いてるんだ。)
色とりどりの花が夕暮れに照らされて、舗装されている石畳は歩きやすい。
色んな種類の木が生えていてくれるおかげで、目にも楽しいし日が当たりすぎない。
幸村の好きそうな場所だ。
そう思うとなんだか安心して、自然と千百合の口が開いた。
「・・・精市。」
「・・・うん。」
「聞きたいことがあるんだけど。」
「うん。なんだい?」
「今日のイップスの事で。」
「うん。」
「あれって、精市は何も危ない事ないの?」
千百合は何よりそれが聞きたかった。
さっきの話。おそらく一同の中で一番納得させづらい、紀伊梨と紫希の心情を優先させた結果、イップスとは何か?相手にどういう事を齎すのか?という事に終始していた。
幸村に対していかなる影響が出るのか。
その話は一切出てこなかった。
それが出来るようになる事によって、幸村は何か変わったりしないのか?
その点にまで話を広げると、心配性の紫希と怖がりの紀伊梨は止めた方が良いと言い出すかもしれない。
それを見越して黙っていたのであろう事はわかる。元より幸村は・・・というかテニス部は、最早止まらないだろう。
テニス部が今後どうするかは決まっている。
それを変えるつもりはないが、それはそれとして出来れば支持して欲しい。
これはそういうタイプのテニス部側の我儘であることに、千百合は想像がついていた。
だからあの場で聞くのは止めておいたけど。
「・・・どうなの。」
「・・・嘘を吐きたくないから正直に言うと。」
「・・・言うと?」
「99%問題ないけれど、残りの1%は多分、永遠に分からない。」
99%大丈夫。
その部分だけでも、千百合は落ち着いた。
「1%永遠に分からないって何?」
「そもそもの話だけど、強いとか弱いとかじゃなくて、相手に対してイップスを起こすっていう事そのものが例にない現象らしくてね。例がないから、科学的に100%大丈夫です、って断言が出来る日は来ないだろう、って柳が。」
「ふうん・・・」
「でも、学校でも言ったけれど、俺自身は別に何も特別な事はしていないからね。普通にテニスをしているだけで、あくまで相手が怖れを抱くがあまりのイップスだから、俺自身に何かが起こる確率は極めて低いって言われたよ。」
「そういうもんか。」
確かにそれは頷ける話だった。
見ていても、別に幸村が特段変わったことをし始めたわけじゃないし。
「どうかな?安心してくれた?」
「まあ、その質問は。」
一番大きく心配していた部分がほぼ問題ないとわかって、千百合は大きく息を吐いた。
何よりこれを心配していた。
体が無事だからってスポーツが順調に出来るとは限らないが、体が不調だと間違いなくスポーツも不調になるのは絶対だからだ。
「次聞いて良い?」
「良いよ。どうぞ。」
「イップスって調整出来るの。」
「調整?」
「所謂得意技みたいなショットはさ、打つとか打たないを自分で決められるわけでしょ。打てるからって打たないといけないみたいなルールはないし。精市のイップスも、精市の任意で起こす起こさないとか決められるのかなって。」
「そうだね・・・今は無理かな。」
やはり。
これはもう、答えが分かっていて確認しただけだった。
もし任意でコントロール出来るのなら、今日みたいな話は必要ないのだ。どうしても必要な時でない限り、封印しておけば良いだけなのだから。
「まあ、厳密に言うと出来ないわけじゃないんだけれどね。」
「え。そうなの。」
「多分、俺が手を抜いてわざと負ければ起こらないよ。」
「それ出来るって言わないでしょ、無理じゃん。」
「あはは。」
確かに原理的にはそうすれば防げるのかもしれないが、これから先ずっと全力出さないで負け続けていろなんてそんな事は誰にも言えないだろう。それは最早、テニスやってると言えない。
「でもね、それはそれとして将来的には、どうにかそう出来ないかなと思ってはいるんだ。大会は兎も角としても、練習に支障が出るし。」
「ああ。だよね、試合形式の練習するもんね。今どうしてんの。」
「まだ相談中だけれど、今は取り合えず「俺だけ最後までしない」っていう風に落ち着くと思う。3ゲーム先取制みたいな風にしてね。相手によっては最後まで出来るし。」
「そっか。周りのレベルが高けりゃ良いんだっけ。」
「でも、この方法もね。俺が足踏みしてなくちゃいけない、って事になりかねないから。」
「ああ・・・じゃあやっぱり、任意でどうにか出来るようになるのが一番良いんだ。」
「そうなるね。とは言ってもさっきも言ったように、俺自身は特に何かしているつもりがないから、どうすれば良いのかわからなくて。今、色々試行錯誤してるんだ。」
「試行錯誤っつったってさあ。」
千百合の言わんとしてる所が伝わったのか、幸村も千百合に苦笑を返した。
今までの話を踏まえて試行錯誤と言っても、出来る事なんてたかが知れている。有効打があるようにも思えないし。
「次だけど、これ、私らが誰か他の人に何か聞かれたら、言わない方が良いわけ?」
「ああ、それは平気だよ。学校でも言ったけれど、俺は特に隠そうとしてるわけじゃないから。」
「そ。」
「ただ、信じて貰えるかは別の話になるけれど。」
「まあそれもそう。」
「ああそれから、個人的には兎も角、記者の人なんかに聞かれた時は俺に話を回して欲しいかな。本人に聞いてくださいって。」
「あー、そっか。それがあったか。」
「うん。というよりもこの件に限らず、今後報道の類の人から何か聞かれたら、本人に聞いてくださいで回してくれて良いよ。いちいち対応するのも大変だろうし、何よりソースとみなされたら事あるごとに何がしか聞かれることになるし。」
「ああ、じゃあそうする。聞くだにうざそう。」
そういう意味では小鳥遊はある意味ほっとする存在かもしれない。
あの大人は、テニス的な事は寧ろ聞いてこないから。
「最後。ちょっと、イップスとはこれだけ関係ない話なんだけど。」
「え?そうなの?ああいや、勿論良いんだけどね。なんだい?」
「次、もう決勝でしょ。」
「うん。」
「勝ったらお祝い何が良い?」
ぴたり。
と、幸村の足が止まった。
「・・・・あれ、精市?」
「・・・ごめんね。ちょっと時間をくれるかな。2分・・・いや、1分。」
「いや良いよ別に。待つよ。待つけど。」
待つけど、何故待たねばならないのかは分からない。
幸村はとても難しい顔で立ったまま、思案気に視線を伏せている。
何かを考えている顔は偶にやっているけれど、今みたいに眉間に皺の寄った顔は珍しい。
何だ。何を考えているんだ。ちょっと怖いんだけど。
「・・・・・・」
「・・・あの、そんな大げさに考えなくてもさ。」
「どうして?これ以上ないくらいの大事だと思うんだけれど。」
「いや、そんな期待されても困るわ。私に出来る事だって限度があるし、要求されても何でも出来るわけでもないしさ。」
それこそ、自分はまだ子供だし。
お金もないし。時間はあるけど、向こうは時間が無いし。
何考えてるのかは知らないが、過剰期待なのでは・・・・と思いながら千百合が見つめていると、幸村の形の良い唇から、流石に・・・と零れたのがぎりぎり聞こえた。
「何か要求はあるわけ。」
「・・・ないじゃないけれど、卑怯が過ぎると思って。」
「卑怯?」
「要は、祝う気があるなら承諾してくれって頼んでるようなものだからね。」
「ああ、まあ・・・そう、とも、言えなくもないかもしんないけどさ。確かに。」
なるほど、そう言われてみたら確かに、足元見ようと思えば見られるわけだ。
幸村は性格的に可能であってもそういう事はしないが、逆に言うと今回は珍しくそれを悩むレベルらしい。
裏を返すと、それだけ欲しいと思っているわけだ。
「・・・別に良いんじゃない。」
「え、」
「何だか知らないけど、精市がそんなに欲しいと思ってるんだったらさ。滅多にそこまでの我儘言わないんだし、全国優勝した時くらいは。」
千百合的にはこれは親切のつもりだったのだが、幸村はこれを言われて余計に迷いが深く入ったようだった。
半分以上諦めていたのを、揺り戻されて丁度半々になったのだろう。
今幸村は、自分を優先させるかそれとも辞めるかで大分迷っている。
「・・・何?」
「え?」
「何がそんな欲しいの?何なのか純粋に興味なんだけど。」
それこそ、幸村なんて家は裕福で能力もあって、誰からもテニスやってることを歓迎されていて。大概のものはくれと言ったら手に入るだろうに、一体そこまで悩むほど何が欲しいのか。
尋ねると幸村は何とも言えない顔をして、んん・・・と言いにくそうな声を出した。
「・・・千百合はわからないかい?」
「いや。わかんないから聞いてるんだけど。」
「心当たりもない?」
「ない。」
「・・・この前、貰いそびれたって言えば?」
「いつよ。」
「プールの日に。」
かっ!と顔が熱くなった。
もう日が沈みだしているのに、直射日光にさらされてるみたいに熱い。
素で頭から抜けてた。
忘れていたわけじゃないけど、それとこれとが完全に今、頭の中で切り離されていた。
いや、でも。
確かに自分にしか与えられない反面、優勝を理由にこれってどうなのとも思う。
真っ赤になって下を向く千百合を見て、幸村は可愛いなと思いつつ、心が迷いから諦めの方へ傾いていくのを感じた。
「良いよ。」
「は・・・?」
「やっぱり、今の話は無かった事にしよう。別のものを考えるから。」
「え、」
「千百合が嫌だって思ってないのは分かってるよ。それは教えて貰ったから。でもそれはそれとして、こういう形で要求するのはやっぱりどうかと思うんだ。何か適当に扱ってる感じというか・・・優勝のご褒美なんて、何かのゲームの景品みたいで。」
その感覚も、千百合はわからないでもない。
幸村なら猶更性格的にそう思うだろう。
それこそもし優勝できなかったら、じゃあしてやらないのかって言われると、やっぱりそういうもんじゃないと思うし。
千百合自身が、フェスでノーミス演奏が出来たら強請ろうと思っていた時には、こんな事思わなかった。のに、全国優勝祝いに欲しいと言われるとこういう風に思えてしまうのは、やっぱり力関係の差だろうか。
自分の方が差し出す側というか。本当にその気になったら、幸村は無理やり千百合を抑え込むことなんて造作もない。
やりたい放題やろうと思えば、いつでも出来てしまう。幸村もそれを承知しているからこそ、間違っても自分の都合を優先したりしてはいけないと殊更気を使っているのだろう。
それも分かる。
よくわかる。
ーーーー分かるけど。
「・・・・・・」
「・・・?千百合?」
千百合は幸村の服の端を引っ張った。
その引っ張っている服の感覚が乏しい。
恥ずかしすぎて指の感覚が消え失せている気がする。ああ、もしかしてこれって今イップスに近いことになってるのか、なんて現実逃避めいた事を頭が勝手に考える。
幸村は大体の場合察しが良い。
だから多くを語らなくても分かってくれる事が多いが、逆に言うと今みたいな時だって、何も言わなくても千百合が何考えてるかくらいはわかるだろう。
「・・・・・・・」
幸村は黙っている。
こっちを見ているのは気配でわかるが、気づいてるなら何か早く返事をして欲しい。
ずっとこうしているのが辛い。この次にどうしたら良いのかわからない。
「・・・条件を追加しても良いかな。」
「・・・・何。」
「優勝したらっていうだけじゃなくて、俺が勝ったら、も付け加えて欲しい。」
「・・・・・・・」
「優勝だけなら、俺が負けても優勝になる可能性はそれなりに高いから。でも俺は、自分が負けたのに学校としては勝ったからって、お祝いをくれなんて言えない。」
確かにそれもそうだ。
自分のことながら千百合は今初めて気づいた。
全国優勝したら、というのは幸村個人の戦績とはまた別の話なのだ。
いやまあ。幸村が負けて学校は勝つって、その逆の方がよっぽどありうる話だと思うけれど。
「・・・うん。確かに。良いよ、分かっ・・・!」
ぐい、と両肩を掴まれて引き寄せられて、気づくと幸村の紫の瞳が至近距離から自分を見つめていた。
「本当に良いね?」
言葉としては確認を取っているけど、やっぱり取り消しなんて絶対に言えないような、真剣そのものの目で、幸村は千百合を見つめる。
こういう時、千百合は幸村をほんの少し怖いと思う。
この男は、すると言ったら必ずする。油断したり脇が甘いなんてあり得ない。その態度が、絶対に逃がさないと語りかけてくるようで。
いや。正確に言うと、逃がしてくれないわけじゃない。
千百合が本気で心底から嫌だと言ったら、幸村はすぐに千百合を解放してくれるだろう。
でも逆に本気で嫌だと言えない限り、幸村は拘束の手を緩めてはくれないのだ。
こんなーーー臆する気持ちの数倍以上、それで良いと思っているような状態で嫌だとか嘘を吐いて、一体今更何になろうか。
両肩を掴まれている以上に一気に心理的に拘束された感覚を抱いて、千百合は顔の熱さを感じたまま小さく頷いた。
幸村はそのままもう少し千百合を引き寄せて、額を重ねて言った。
「・・・不戦勝になるかもしれないけど。」
「・・・・勝ちだし。」
日が沈みかかって。
夕日のオレンジ色が濃くなって、ミストが変わらずかかっていても、それでも暑い夏の日に、こうして幸村と千百合は約束をした。
お祝いは当日。
徒にそんな条件を付けなくて良かったと、2人は後から思うことになるが、今はまだ知らなかった。
知らないまま、少しの間甘い感覚に身をゆだねていた。