今9月の頭である。
そしてあのフェスの日。あれが8月の半ば、中旬と呼べる時期が丁度始まったくらいの時期。なので可憐は言うなれば、気持ちを自覚して未だ2週間の段階。
つまりどういうことかというと、可憐の心のバランスは、均衡は保っていたものの、とてもとても危うかったのだ。
表面上は普通であっても、内心普通じゃないのを隠していただけ。
そして可憐は今、その心のバランスが崩れかかっていた。言わずもがな、あの女生徒から言われたことが尾を引いていたのである。
「可憐ちゃん、悪いねんけどそっちの山全部10部づつあるか数えてくれへん?」
「あっ、うん。分かった・・・」
(・・・・・・・はあ。)
『私はお似合いだと思うわ、とってもね。』
『これを機会に、アプローチしてみるのも良いんじゃなくて?』
この言葉は可憐にとても深く刺さった。深く、深くだ。
アプローチなんて、してももう遅い。
そういう言葉で鍵をかけて仕舞い込んでいた気持ちが、今あの女生徒のおかげで無遠慮に開けられ、可憐の心の中で散らかっている。
可憐はー--いや、可憐だけじゃない。ビードロズも可憐のクラスメイトも思っていることだが。
まだ付き合ってないのなら、チャンスはあるんじゃないか?
この発想は、誰もが一度は考えたことだった。
ただ、誰も可憐にそんなこと勧めない。勧められない。
だって、駄目だった時に悲しむのは可憐なのだ。自分じゃない。当たって砕けろとか言うけど、砕けるのはけしかけた本人じゃなく友達の方。
ある意味、あの女生徒は可憐の友達でも何でもないから、あんなことを平気で言えるのである。可憐が砕けようとどうなろうと、根本的に構いやしないからだ。
でも、あの言葉は確かに、可憐の心の奥の方に残る「諦めたくない」という気持ちを起こしてしまった。
それこそ、今ならまだアプローチが許されるんだから、許される間に。
(・・・・・あれ?)
「・・・・・」
「・・・可憐ちゃん?どないしたん?」
「・・・え?」
「もしかして、部数足らへんかった?」
「あ、ううんっ!足りてる足りてるっ!大丈夫、大丈夫・・・」
可憐は、ふと考えた。
今ならまだ付き合ってない。それは事実だ。
しかし、この状態はいつまで続くんだろうか。
少なくとも、忍足はもう自分の気持ちを自覚している。今日明日に付き合い始めたとしてもおかしくない。
そう考えると、可憐は急に焦燥のようなものが湧いてきた。
今だ。何か行動するなら今のうちだ。
・・・・でも。
(もし駄目だったら・・・ううん、もしっていうか、駄目なんだよ・・・駄目って分かってるのに努力したって・・・)
駄目って分かってるのに頑張るって、そんな惨めなことがあるだろうか。ことこのことに感しては「頑張って続けたらいつかは」とか、そういう類のものですらない。
どんなに頑張っても頑張っても、結果は見えている。
それなら、頑張らない方がまだいくらか虚勢を張っていられるだろう。
頑張って頑張って、しゃにむに頑張って、その挙句にお断りの烙印を押されるくらいなら、いっそ何もしない方が。
「はあ・・・・・」
溜息が止まらない可憐を、忍足は作業しながらちらりと見やった。
「・・・・・・・」
昨日あの女生徒と別れてから、忍足は何度か「気になる事はないか」的なことを声かけし続けているのだが、まったく返って来ない。
でも、可憐の様子がおかしいのはわかっている。
ドジの回数も減った。
「・・・可憐ちゃん、ちょっと遊び行かへん?」
「うん・・・えっ?」
「ほんなら、行こか。」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってごめんごめんっ!私今、ぼーっと返事しちゃってっ!急に何っ!?どうしたのっ!?」
「肩凝ってきたさかい、休憩したなってん。」
忍足はよくこういう嘘を吐く。
本当は休憩の必要などないのだ、忍足は。でも、「お前が疲れてそうだから」とかそういう言い方は絶対しない。これが忍足の優しさ。
優しさであり。柔らかさであり。相手のためであり。
そして絶対に相手には伝わらない気遣いの形。
今は授業中である。可憐は体育で、忍足は音楽で、まあまあ抜けてもそれほど大した問題じゃないと2人が判断したため、選挙活動の作業の方を優先しているのだ。
だから、休憩と言ってもできることは限られているし、行ける場所も沢山はない。
だから2人は、中庭にやってきた。
「な、なんだか眩しいなあ日の光がっ。」
「ずっと書類見とったらなあ。天気とか時間の感覚がのうなってまうな。」
いつもは人でいっぱいの中庭も、今は誰も居ない。
ベンチに腰を下ろすと、ちょっとだけ夏より温度の下がった風が可憐を撫でていく。
木に遮られてちらちら光る太陽。
青い空。
(・・・不思議な感覚だなあ。)
胸の中の悩みが消えたわけじゃないのに、ここでこうしていると、不思議とそれが気にならなくなる。
あなたの悩みなんて、大したことじゃないのよ。綺麗な景色がそう囁いてくるかのよう。
思えば、神奈川へ行く前もこうしてずっと外で活動していた筈なのに。あの時は涙を隠そうとして、下を向いてばかりで空を眺める余裕もなかったっけ。
(のどかだなあ・・・あっ、鳥だっ!あれ、なんて言うんだろう?)
段々と内向きだった意識が外向きになってきた可憐の横顔を、忍足はそっと眺める。
今なら誰も居ない。
最近、何か悩んでることない?相談に乗るよ。
そう言うのは簡単だ。簡単だけど。
(それをして楽になるのんは、どっちか言うたら俺やさかいな。)
可憐にはいい迷惑だろう。折角今いい感じに気分が晴れているのに、また元あった悩み(どんな悩みかは忍足は知らないけど)に揺り戻されるのは。
何かしてあげたいけど、何もしてあげられることがない。
だからせめて、できることを。楽しい時間を伸ばすことを。
「忍足君、あの鳥何か知ってるっ?」
「あれはシジュウカラちゃうやろか。」
「あっ、あれがシジュウカラなんだっ。公園にも居るよねっ?」
「せやな、よく見るわ。」
「他にも居るかなあっ?私、鳥って言ったらスズメとか烏とかくらいしか、実は知らないんだよねっ。」
「そういうたら、こないだメジロ見たわ。」
「メジロ・・・?」
「知らへん?こう、結構はっきりした黄緑色の鳥やねんけど。」
「そんなの居るのっ!?見た事ないや、私っ。」
「行く?」
「え?」
「メジロ見に。っていうても、タイミングよく見れるて決まったわけやあらへんけど。そんなに遠ないし、十分戻って来れるで。」
「う・・・で、でも大丈夫かなっ。一応作業があるし、授業中だし・・・」
忍足は微笑んだ。
こういう所が実に可憐らしいというか。
「10分だけ。」
「・・・・・」
「どうする?無理は言わへんけど。」
「・・・・じゃ、じゃあちょっとだけ・・・?」
「決まりやな、行こか。」
気晴らしとしては成功だなと思う忍足は気づかない。
確かに、悩みは今可憐の中でなりを潜めている。そういう意味では忍足の思った通りの時間を過ごせている。
ただし、悩みは一時的に引っ込んだとしても、気持ちは引っ込まないでまだそこにずっとあり続けている。
負の感情が削ぎ落され、シンプルな感情だけが残っている。
やっぱりあなたが好き、という非常に単純な思いが。
「・・・・ふうん。」
それを廊下の窓から見下ろす影が居たことを、誰も知らない。