Festival of ocean:Captive 4 - 8/8


「はあ、はあ、」

幸村は無言で上っていた。

きつい。
最初はロープじゃないから、ふらつかないだけマシかと思っていたが、とんでもない。棒は手汗で滑るのだ。この最後の最後に来てこの種目は、とんでもない握力が要求される。

幸村だから多少息を切らす程度で済んでいるが、多くの生徒は同じ条件だと多分落ちる。落ちて、のぼることを諦めるだろう。
そもそも3分短縮縛りで、ここまで時間内に辿り着くだけでも相当なのに。

(われながら、本当に不思議だな。)

大分疲れてるはずなのに。
休憩ポイントがないわけだから、ゴールに近づけば近づくほどそこまでの過程で体力が消費されてるはずなのに。

でも、千百合がもうすぐそこに待ってると思えば、全然辛いと感じないのだ。

もう少し。




もう少し。
もう少しであることは、待っている側にもわかっていた。
もう、ちょっと下を見るだけで視認できる。

「・・・鳴海、出ておくか?」
「え?」
「ほら、俺が説明しても良いし・・・お前はもう、視聴覚室から出ておく感じで・・・いや、筋が通らないのはわかるぞ、俺も。でも・・・」

ここに居ると、お姫様を助けに来た王子様幸村の図を、目の前でずっと見てることになるぞ。良いのか。という、佐川の親切である。

もちろん、鳴海も千百合もそれはわかるというか、容易に想像はつく。

でも。

「・・・居ます。」
「マジ?」
「はい・・・そのために、ここまでしたんです。」

傷つくために。
もうこれ以上傷つけないというくらい、コテンパンに傷つくためにこうしたのだ。
今逃げたら、全部無意味。

「・・・あの、私。」
「黒崎さんは、良いよ。自由にしてて。」
「・・・わかりました。」

本当に良いのだろうか。
いや、コンセプトとしては、いっそラブシーンを演じた方が目的に適っているのはわかっている。
でも、心理的な抵抗は強い。そもそも人前でラブシーンとか苦手だし。それによって不愉快に思う人が確定で居るのはもっと苦手だし。

ただ、それはそれとして、自分の振る舞いが制御できないのを千百合は経験からわかっていた。
ああしよう、こう振る舞おうとかいう意気込みは、大体幸村が同じ場に居ないからできるのだ。
目の前に幸村が居ると、大体自分は自分の思うようにいかない。
千百合は良く知っていた。

おまけに幸村は、鳴海がなんでこんなことしたのか、どうして千百合が抵抗しないのか、全然知らないのである。
企画段階で佐川から出た言葉。「女子だし無いとは思うけど、100回に1回くらいは幸村から怒りのグーパンが飛んでくることもあり得るぞ」との意見は、正直否定できないかもと鳴海も千百合も思っていた。

上ってきたら、落ち着いたら、何から話そう。
何から分かってもらおう。
それ以前に、何を言われるか。

考えている間にも、上り棒が揺れるカシャンカシャンという音は近づいてきて、そして。

「・・・はあ!はあ、は・・・」

手がゴールの床にかかる。
上体を乗せて、続いて足を乗せる。
登り口の端にあるブザーを押すと、ビーーー!というゴール音が鳴り、下のギャラリーがわっとわく声が聞こえた。

「ー---精、」

千百合が名前を呼ぶ前に、幸村が汗ばむ顔を上げた。

真剣な目つきが、千百合を頭から足先まで見つめる。
どんな些細な怪我でも絶対に逃すまいという、強い意志を持った目で千百合を見る。

そして普段と変わりないことを確認して。
それからやっと長い息を吐くのだ。

「はあ・・・・」
「精市、」

半分は体が勝手にという感じで、千百合は幸村に駆け寄った。

幸村は、上ってすぐの所で座り込んでいた。

当然だ。
こんな高度な障害物レースを、常人を圧倒するタイムで駆け抜けてきたのだ。普通はクリアできないようなハードルを超えてきたのだから、いかな幸村でも流石に弱る。

「千百合・・・」
「精市、大丈夫ー--」

駆け寄って、何ができるわけでもないのだが。
でもとりあえず近くに居たくて、背中でもさすろうか、その前に状況の説明とかが先かな、なんて考えながら近づいて傍らに膝を着くと、幸村の腕が肩に回った。

そのままぐい、と抱き寄せられて、幸村の額が肩に押し付けられた。

はあ、と吐いた溜息の熱さが、幸村の消耗度をそのまま表しているようだった。

「・・・・ごめ「ごめんね。」へ?」
「ゴールできたと思ったら、急に疲労感が強くなって・・・もう少し、立つのは待って欲しいんだ。」
「いや、そんなの全然良いよ。当たり前じゃん、あんなきつい目に遭って。」

今学校中を探しても、幸村に向かってすぐ立って歩けなんて言える人は居ないだろう。じゃあお前がやってみろと言われて、クリアできないという人が9割以上のはずだ。

「飲み物とか用意してないし、自販機行って来よっか。」
「ううん。」
「タオルとか。」
「良いんだ。それより、ここに居て。傍に居てくれないと怖いから。」

幸村はとにかく、今は千百合から離れたくなかった。
せっかく今一安心したのに、またすぐ不安になんてなりたくない。
ここには千百合を守ってくれる友達も居ないし、自分も状況を読めてない。

逆に、千百合が居てくれるのなら状況はもはや後々で良い。
友達が居なくても、自分が守れるし。
だから、良いのだ。





「・・・・・・・」

一方の鳴海は、とりあえず立ってはいても、極限の苦しさと戦っていた。
苦しい。
息ができない程辛い。

今までずっと悲しくて泣いていたけど、今は苦しくてならなかった。
幸村はテニス部で公私混同を一切しないから、恋人の存在は色濃く伺えていても、ある意味それ以上のことはなかった。

今は違う。
目の前で、幸村が女の子を抱きしめている。

幸村は穏やかで人当たりが良いから、男女問わずいろんな人と関わるし話す。
それでも、誰も幸村にとってそういう特別ではないことは、見ればいつもわかった。それこそが幸村のそつのなさー--隙が無い、と言われるゆえんだった。
それはわかっていた。

頭ではわかっていたはずだったのに。

あんなにはっきりと、たったひとり、あの子だけが彼にとって特別なんだと思い知ること。
それがこんなに辛いなんて。

「・・・・・ごほん。その、悪い幸村。ちょっと良いか?」

流血してるんじゃと思うくらい爪を手の平に食いこませて、握って泣くのを我慢してる後輩。佐川は、それをあえて無視して言った。誰かが場を動かさないといけない。こういうときのための自分でもある。

「はい?」
「そ、そのままで良い!休憩しててくれて良いんだ!じゃなくて、その・・・あの、そもそもの話の説明なんだけど、悪いけどもうちょっと後に、」
「ああ・・・

別に、聞きませんよ。」

「「え?」」

(え?)

鳴海ははっと顔を上げた。

幸村も千百合の肩から顔を上げていて、その表情は穏やかな、いつもの幸村だった。

「聞かないってお前ー--」
「ああ、聞きたくないというわけじゃありません。聞かせていただけるんでしたら、ぜひ。でも、別に良いんです。そちらが言いたくないのであれば。」
「・・・・・・」
「見ていれば、俺に説明しにくいんだろうなってことは、なんとなくわかります。俺は、鳴海先輩のことも佐川部長のことも・・・もちろん千百合のことも信じていますから。千百合が無事で、3人とも俺に言いたくないというのであれば、それで結構です。」
「・・・・・っ、」

ぽろ、と鳴海の眼から涙が零れた。

「先輩?」
「ううん・・・何でもない。何でもないよ・・・」

いっそ。
いっそコテンパンに怒られた方が、まだ良かったかもしれない。

この期に及んで、信じてるなんて。
自分には、そんな価値ないのに。
自分はわがままで、彼女持ちの後輩に気持ちを押し付けたあげく、クラスメイトも部活の部長も恋敵もみんなみんな巻き込んで、こんなことまでしでかして。

自分がどんなにひどい人間か、幸村はわかってないんだ。だからこんなこと言えるんだ、という気持ちがある。
でも同時に、幸村は全部察してるのかもしれない、とも思う。察した上で、こんな風に言うのかも。

「・・・さて。」

幸村は立ち上がった。
やっと呼吸が整ってきた。

「では、申し訳ないですがあとは任せても良いでしょうか。千百合も俺も、もう少ししたらライブがあるので、急ぐんです。」
「あ、ああ!そうだった、早くギャラリーも解散させないと!じゃあえっと・・・とりあえず、2人はもう行って良いから。話は後でってことで・・・」
「はい。千百合、行こうか。」
「ん。」

鳴海の気は結局済んだのか、千百合にはわからない。
でも、とにかくもう、頼まれてたことは全部終わったのだ。
ここからはもう自由。

「気をつけて。」
「うん・・・」
「千百合?」
「何でもない。早く出よ。」
「?うん。」

視聴覚室に戻り、扉を閉める。
廊下は無人だった。
皆中庭に出払っているからだ。

「まだライブには時間があるけれど、今皆中庭だからね。混雑する前に移動しない、とー--」

幸村は驚いて言葉を切った。
千百合が正面から抱き着いてきたからだ。

「・・・千百合?」
「・・・ごめん、ちょっとこうさせて。」
「それは良いけれど・・・どうしたんだい?どこか具合が悪い?」
「・・・うん。しんどい。心理的に。」

今自分が目の前の幸村に抱き着けるのは、たまたまの産物でしかない。

顔を上げたら自分の顔を覗き込んでくる幸村の姿は、決して当たり前じゃない。
千百合はそのことを、今日よくよく思い知った気がする。

もしも生まれ変わったら、なんて漫画かアニメみたいなフレーズの未来を考えた時、多分そこに幸村と一緒の未来はない。
こんな奇跡は、生まれ変わったらなくなるのが当たり前だ。

彼氏はできるかもしれない。
でも、それは高確率で幸村じゃない。

そう思うと千百合は今の人生が、世界が、とても貴重でとても儚いものに感じてしまうのだ。

「・・・転生が本当にあったら、私次は人間嫌だ。」
「・・・ふふっ、あはは!本当に珍しいね、どうしたんだい急に。今は、そんなにつまらない?」
「違う。」

違うことは、幸村もわかっているのだろう。
わかってて言ってるのだ。

「今が楽しいから。」
「うん。」
「今より良い人生はなさそうだから嫌なの。」
「・・・俺もそう思うよ。」
「・・・・・」
「だから、俺は生まれ変わっても人間が良いな。」
「・・・・ん?」

千百合が顔を上げると、ほぼ同時に幸村の唇が額に降ってきた。

「今が楽しいから。だから俺は、生まれ変わっても続きを生きたいんだ。」
「・・・・」
「俺は人間で、千百合も人間で、皆も人間で。今より違う人生だけど、でもまた皆で集まって、一緒に過ごすんだよ。」

そう。
そしてそうなったとき、千百合は幸村のそばに居られるかと言うと、傍に居るだけならまあまあできるかもとは思う。
でも、恋人の座に収まれるかは自信がない。他の相手ならいざ知らず、幸村の恋人の座を二度も三度も射止めるって、相当難しいと思う。

千百合は卑屈な性格してるわけじゃないが、自分を過信することもない。
まあ控え目に言って無理筋ではと思うけど。

「・・・・・・・」
「?」
「・・・精市ってそういう所あるよね。」
「どういう所?」
「人を納得させる能力というか。」

千百合は自分を過信しない。
でも、幸村のことは全面的に信じる。

だから、幸村が「そうだよ。」といつものように穏やかな口調で言ってくれるだけで、本当にそうなる気がするのだ。

「・・・・じゃ、やっぱり人間でいることにする。」
「ふふふっ!良かった、嬉しいよ。」

次人間に生まれても、幸村はテニスしているのだろうか。
しているんだろうな、と思うと千百合はテニスがちょっと羨ましくなった。