『あの♪空ーの向ーこうを♪
見たーくて一人♪飛ーび立った♪』
紫希は頭が真っ白になっていた。
手が止まるわけじゃない。
練習を重ねたおかげで、手はもはや半ば勝手に動くようになっていた。
でも、意識をはっきり保てない。
練習の時は、あそこを注意しなくちゃとか、ここ走りがちだから意識しないととか考えながらできたのに、今はそれができない。
『ガラ♪クターの飛行ー船で♪
荷物ーは夢と♪一曲、好きーな歌♪』
幽体離脱なんてしたことないけど、もしできたらこんな感じかもしれない。
周りが認識できない。
自分も認識できない。
しっかりしなくちゃ。
皆の音を聞かなくちゃ。
そう思っているのに。
頭ではそう考えているのに、働いているその部分は脳のすみっこ。
『落ち♪たり♪浮かー-んだり♪
蛇行運転で♪すっすんでく♪』
あたま全体にもやがかかってる気がする。
視界も。
聴覚も。
見てるのに見ていない。
聞いてるのに聞いていない。
大勢の観客を見るのが恐ろしいから。
人の歓声を聞くのが怖いから。
緊張のピークに、体が拒否反応を示しているのだ。
でも。
紀伊梨の歌にギター。
千百合のベース。
棗のドラム。
それだけは聞こえる。
もやのかかった世界でたった一つ、命綱のようにクリアに聞こえる音。
『スピー、ドは♪出なーいけど♪
手を振ってくれーる人♪はよく、見ーえる♪』
(・・・手を、振ってくれる、人・・・)
自分の書いた詞さえも、なんだか記憶が薄い。
自分が書いたように思えない。
そのせいだろうか。
かえって、紀伊梨の歌がよく聞こえて、紫希は顔を上げて右を見た。
目が合った棗は嬉しそうに笑った。
『誰かが乗ーってくるたびーに♪』
後から聞いたが、千百合が振り返ったのは、気のせいとしか言いようがないらしい。
なんだか紫希が見ている気がして、斜め後方を振り返って。
そしたらなんだかぽかんとした珍しい顔をしていたから、笑ってしまったのだそうだった。
でも、それは全部後から聞いた話。
今、この瞬間は、千百合がおかしそうに笑ってくれた。
紫希にはそれがすべてだった。
『少し船は重くなる♪』
紀伊梨はきれいだった。
紫希は紀伊梨の左後方に居たから、斜め後ろからの顔しか見えなかったけど、それでもきれいだった。
楽しそうに笑ってるのがわかった。
誰より楽しそうに笑っていた。
音楽の女神さまって、本当に居たらこんななんだろうなと思った。
そう思って眺めていたら、紀伊梨は観客に向けた笑顔そのままで振り向いた。
『だけど何故だろう♪
心は軽く♪あたたかに♪なる!』
紀伊梨は紫希を見ながら、観客の方を指さした。
棗は編曲の時点で、紫希のー--キーボードの見せ場をちゃんと作っていた。
サビにそれが入る。
だから紀伊梨は、行け!という意味をこめて観客の方を指し示したのだが、紫希は違うものを見ていた。
居る。
そこに。
ビードロズの向こうに、いつもの皆が。
丸井が。
「・・・・・・!」
ああ。
戻る。
感覚が戻る。
頭が冴える。
視界がクリアになる。
聞こえる。
見える。
勝手に動く右手が、左手が、キーを変えて、サビの歌声に乗る。
『さあ!』
紫希は笑った。
笑ったという自覚などなかったけど、でも笑い出した。