「んー・・・・」
千百合はクローゼットの姿見の前でベースを弾いていた。
ベースの師である一条直樹から出された課題曲が難しくて。どうしたら良いんですかねと聞いたら、手の形を教えられた後、鏡の前でやってみても良いよと言われたのでやってみてるのだ。
(確かにわかりやすいけど、それはそれとしてこの動きめんどくせ。)
「・・・・はあ。」
やめた。ちょっと休憩。と思ってベッドに腰かけた時、インターホンが鳴った。
ピンポーン
「ん。」
一瞬無視しようかと思ったが、そうだった。今母が不在で、家に自分しか居ないのだ。
宗教の勧誘だったら迷わず切ろうと思い、リビングに下りてインターホンの通話ボタンを押す。
「はい、どちらさま・・・」
『千百合?』
千百合はびっくりして、ちょっと目を見開いた。
「精市?・・・・と、お母さん?どしたの?ああ待って、とりあえず開けるわ。」
どういう取り合わせなんだとか、そもそも部活はとか、いろいろ言いたいことはあるけどそれは玄関を開けてからでいい。
「はい。お母さんおかえ・・・何か顔色悪くない?」
「人に酔った・・・うぷ。」
「あはは・・・ちょっと、ショッピングモールに行ってて。」
「え、一緒に?」
「ううん。俺は通りすがっただけなんだけど、ちょっと手伝いが必要だったみたいだから。」
「途中で動けなくなっちゃって・・・一緒に居てくれて買い物はできたんだけど、最後の満員電車が、ううう・・・ごめんちょっと横になる・・・」
ふらふらとソファに向かう母の姿にも千百合はちょっと驚いた。
「ひとりでモールまで行ってたんだ。」
「ふふ。おじさんに、プレゼントを買いたかったんだって。一人で歩く練習もしたかったみたいだよ。」
「へー。ありがと、何か手伝ってもらったみたいで。」
「ううん。大したことじゃないし、こうやって会えたから、むしろラッキーだったよ。お菓子を買ってきたから、お茶にしよう。」
「あー、良いな。私もちょっと疲れてたからジャストタイミングだわ。」
「勉強でもしてたのかい?」
「ベース。今やってるとこがさあ、もうむずいの何の。っていうか、一条先輩が出してくるやつ全部ムズい。」
「あはは!まあ、一条先輩は先生だからね。多分、千百合の弱い所を見抜いた上で教えてくれてるんじゃないかな?」
「やっぱり?いや、私もさ。うすうすそうかなーとは思ってたんだけど。」
「・・・・・・・あー。」
「何、お母さん。」
「お水でも汲みましょうか?」
「いや良い。気分良くなってきただけだから。」
「でも顔色の方がまだ優れませんよ。」
「いやほんとにマジで。大丈夫、ありがとう。」
純子は今、しみじみ幸せを感じていたのだった。
仕事が上手くいった夫。
学校で楽しそうな息子。
娘は夢中になれるものを見つけつつ、こんなできた彼氏と仲良さそうにしてるし。
(私、人生相当恵まれてるよなあマジで。)
ひとりで外を出歩けなくても。
それと幸せとは直結しないんだなあ。
とか思いながら純子は目を閉じた。
愛娘とその恋人の会話は、子守歌としては贅沢過ぎるかもしれないが、たまには良いだろう。
「うわ、マジで寝ちゃった母さん。」
「疲れたんだろうね、大分気を張ってたみたいだし。」
「最近ちょっと調子よかったんだけど、やっぱモールにひとりは無謀だったか。」
ただまあ、千百合が小さい頃はマジのガチで1歩も一人で外出できなかったので、そこから考えたら相当進歩なのだが。
「千百合、お茶が入ったよ。」
「ああ、ありがと。お菓子出そ・・・あ。」
「ふふっ!見かけたら、ついね。」
「やった、ありがと。」
これ、美味しいのだ。
普段千百合は特定のお菓子に対してこれが特に美味しいとか思わないタイプなのだが、このブランドのお菓子は久々のヒット。
「これ、紫希は普通に喜ぶんだけど、紀伊梨は食べるの付き合ってくれないんだよね。」
「あれ?そうなのかい?」
「甘くないとかいって。」
「あはは!ああでも、試食をいただいた時は確かに、結構甘さ控えめだって思ったな。」
「試食あったの?」
「うん。今日買って来た箱には入ってないんだけど。マドレーヌだったかな、確か。」
「へえ。え、良いな。今度行こっかな。」
「一緒に行かない?」
千百合はぐ、と言葉に一瞬詰まった。
別に一緒に行かないといけない用事じゃない。
それはよく知ってる。
知ってるけど。
「・・・・行く。」
「ふふ。じゃあ、再来週のミーティングの日にでも行こうか。ついでに、モールも歩こう。」
「・・・うん。」
別に千百合に欲しいものはない。
多分幸村も、これといって無いだろう。
でも良いのだ。
目的は一緒に居ることだから。