「イギリス楽しかったねー!」
「ねー・・・」
楽しそうに堀江が話す隣で、江野はやや青い顔でぐったりしている。
「なーに、桃美?」
「いやもー・・・私ちょっと、前方の座席の光景見たくないだわ・・・」
「え?どうかしましたか?」
「だってー!海外研修よ、海外研修ー!どーしてあんた達、そーなのよー!」
「おい、うるさいぞ!混じりたいのなら言わんか!」
「混じりたいわけじゃないー!」
江野と堀江の前方座席では、紫希と真田が教科書を広げていた。
帰ったら、間もなく中間考査がある。
そのことを2人はよーく知っていた。
「あはは・・・あれ?すいません真田君、ちょっと良いですか?」
「どうした?」
「ここのwhichっていうのは、ここにかかってるんですよね?でもそうすると、ここでマイクが財布を落としたと言ってるのに、ここではケイトが落としたということになるんじゃ・・・」
「ああ、ここは俺も聞いてきた。この場合、まず、このthatがどの範囲を示すのかに注目しなければならんのだ。よく間違えるパターンとしてはーーーー」
時折通路を通る生徒の一部は、こんなところでまで勉強している2人の姿に、ちょっとぎょっとした顔を向けたりもしている。
まあ、そのくらいなら別に構わない。
愉快じゃないが、不愉快というほどでもない。
のだが。
「うわ、勉強してる・・・」
「何あれwがり勉じゃんやばwキモw」
「あ、馬鹿・・・!」
2人組で連れ立った男子の、片方が言った、「あ、馬鹿。」
この台詞は今、真田の周りに居た生徒のほぼ全員が内心で思ったことであった。
この状況で、忙しなくシャーペンを動かしていた真田の手が止まることが、どんなにおそろしいことかわからないのだろうか。
わからないのだろうな、と後ろの江野は思った。この生徒、確かG組である。真田のことを良く知らないのだ。
「おい。今何と言った。」
「あ、聞こえた?ごめんごめん、気に障っちゃっーーー」
「何と言ったかを聞いたのだ、答えんかあ!」
トラの尾を踏んだ男子の、ひゅっと息を飲んだ小さな音は、もちろん誰の耳にも聞こえなかった。
絶対間違いなく、2ブロック先の客席まで聞こえたであろう大音量に、隣の紫希は耳がキー・・・ンとした。
直接怒鳴られた当人は、言わずもがな。
「・・・あ、あの、」
「答えろと言ったはずだが、聞こえなかったようだな。」
「いや、え、」
「そうか!ならば今度は耳元でもう一度言ってくれるーーーー」
「真田君!真田君、落ち着いてーーー先生がすぐいらっしゃいますから!」
こんな大声で叫んで、近場に居る教師陣に聞こえないはずがない。
紫希の見立ては正にその通りで、トイレに行っていた新海の代わりに、すぐに隣ブロックに居た上里がやってきた。
「あらあら、これはどうしたことですの?」
「せ・・・先生・・・」
「先生、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。こ奴が人に対して失礼な言動をするものですから、少々頭に血が上りまして。」
「なるほど。では、最初に原因となることを言ったのは、後藤君の方ですの?」
「・・・・・・・」
後藤は黙った。
真田が怖いのは今わかったが、それはそれとして、上里も相当怖いことを、彼は以前から知っていた。
前門の上里、後門の真田というやつ。
「おいーーー」
「まあまあ、お待ちなさいな真田君。どうです、皆?」
「え・・・?」
「周りの皆は、見ていましたわよね?最初に失礼を働いたのは、どっちの方でしたの?」
真田は、ちょいちょいこういった揉め事を起こす。
教師陣はそのことを良く知っていた。
一方で、こういう状況になると、見ていた者は皆真田は悪くないと言う。
それも、教師陣はよく知っていた。
その後、絡んできた生徒は上里に引きずられて隣のブロックに移動した。
他の者は、またすぐ各々の過ごし方に戻った。
この手のことは、正直C組としてはすごく良くあることである。
誰もいちいち気にしていない。
だから紫希も真田も、すぐまた勉強に戻ったのだが。
「・・・・・・・」
「・・・切片が、3/4で・・・傾きが・・・」
「・・・春日。」
「はい?」
「邪魔をしてすまんが、1つ聞いて良いか。」
「はい。何ですか?」
「お前は腹が立たんのか?」
紫希は目を丸くした。
腹が立つ。
腹が。立つ。
「・・・さっきのお話ですか?」
「ああ、そうだ。お前は何も言わなかったが、明らかにあの侮蔑はお前も対象の内だっただろう。一言言ってやらなくて良かったのかと思ってな。」
「そう・・・そうですね・・・私は別に。」
「何故だ?」
真田は、本気で解せないという顔をしていて、紫希は苦笑した。
正直なところ、真田の気持ちもまったくわからないではないのだ。
ないんだけど。
「まあ・・・正直、ちょっと慣れてるというか・・・」
「何?」
「あ・・・あはは。なんていうか、ああいうことを言う人って言うのは、多分0にはできないので・・・キリが無いからというか・・・」
言う機会が今までなかったので、真田の預かり知らぬことだが。
ぶっちゃけ。
ぶっちゃけ紫希は、キモイは言い過ぎとしても、人から下に見られることに慣れている。
そして、多分千百合も慣れている。
紀伊梨と幸村の近くに居ると、紫希と千百合は相対的に劣ってると思われがち。(棗は結構そういう枠から「変人」として外されることが多い)
でも、それに対して紫希はそこまで気にしたことはない。
そもそも、紫希は周りの人間を見上げ気味の性質がある。
だからお前は下だなと言われたところで、腹が立つ以前に、まあそうですね感が出てしまって怒りの感情が出てこないのだ。
それからもうひとつ。
「私、皆に甘えてますから・・・」
「どういうことだ?」
「今もそうでしたけど、さっきみたいに何か言われると、大抵の場合、私出遅れるんです。何か返事しようか迷ってる間に、他の人が先に前に出てくれるので、自分で何か言い返す幕がないというか・・・怒る気が消えるというか・・・」
真田みたいな人種には信じられないだろうが、紫希は結構「怒るのには反射神経が要る」と思っている。
ばーか!と言われて、コンマ一秒でなんだてめえこらあ!と言い返すには、変な話だが相応の場数というか、経験というかーーー練習が要るのだ。
紫希は性格的なものもあって、そういう経験が圧倒的に足りない。
だから、反射的に黙ってしまう。
丸井の件で郁に言い返したことはあるが、あれは特例というか、郁が長々と気になることを言うから時間があった、ということが大きかった。
さっきみたいに、すれ違いざまにキモイとか言って次の瞬間には居なくなるタイプに対しては、紫希は大体の場合なす術を持たない。
でも、周りの友人は違う。
特に真田は、その筆頭株だ。
「なんだか、いつも矢面に立たせてしまってる感じはしてるんです。すみません、私自分で自分の面倒見られなくて・・・」
「む・・・いや、そういうつもりじゃない。俺は別に、お前の代わりに怒ってやってるなどと、傲慢なことを言うつもりはない。」
「でも・・・」
「いや、良い。俺は、お前が何か言いたいのを我慢しているんじゃないかと思っただけだ。別に言い返す気が無いというのなら、それで良い。」
紫希はよく、自分の意見を引っ込めてしまう。
それを真田は良く知っている。
でも、嘘は言わない。
それも良く知っている。
紫希が怒る気が消えるというのなら、それは本当にそうなのだろう。
それならそれで良い。
本人がそうしたいと言うのなら、それを貫くのが一番良い。
真田はそう思う性格だった。