町の一角。
人通りが多いわけでもないが少ないわけでもない通りに、そのビルヂングはある。
1階は新聞社が入っており、2階の入口には上品な木の板が看板として打ち付けられている。
そこには卡薩布蘭卡亭と刻まれていて、桐生可憐はそこの女給であった。
「可憐ちゃん、2番のお客様に注文持って行って。」
「はあいっ!」
紺・青・水色のモザイク柄をしたフリル付きの着物。そこに白いフリル付きエプロンを着て、今日も可憐は忙しく働く。
働くことは苦にならない。
ここは給料もまあまあだし、制服は可愛いし、皿洗いは多いから手は荒れるけど他はそんなにきつくない。
たまーに女給と見るや妙なサービスを期待してくる客も居るが、そういう時は遠慮せず階下の記者である安音を呼ぶ。無いこと無いこと書く上に腕っぷしも強い、喧嘩名人の彼女が居れば、大体の相手は社会的な立場が危うくなるのをおそれて逃げる。
そもそも、ここはある程度身分の良い人しか来ないのだ。この客層の良さも可憐には安心だった。酔っぱらって吐いたりとか暴れたりとか、そういう人はほとんど見ないし。
だから可憐は、状況が許す限りずっとここで働くつもりだった。
明日も明後日も、まったく変わらぬ日々が訪れると思っていた。
ある日、材料が足りなくなって買い出しに行った帰りだった。
店は2階なので、勝手口がない。よって、買い出しする従業員も、客と同じく入口を通らないといけないのだが。
「うう、重い・・・あれっ?」
誰かいる。
入り口に立って、看板を見上げている。
多分客だろう。
そう思って近づいてみると。
「・・・!」
立っていたのは少年だった。
整った顔をして、眼鏡をかけている時点で裕福な家だというのがわかる。
制服を着ている。確か、近くの良い家柄の子が集まる学校のやつだ。
彼は看板を見ていたが、やがて小さく口を開いた。
「カサブランカ亭・・・」
「わっ!」
「うん?」
「あ!ご、ごめんなさいっ!ちょっとびっくりしちゃって・・・皆大体読めないからっ。」
多くの人は、看板を見て「なんて読むの?」と聞いてくる。
少なくとも、可憐は初見で読める人を見た事が無い。これが初めてだ。
「ごめんなさい、お客様ですよねっ!こちらへどうぞっ。」
「おおきに。」
「・・・・?おおきに・・・」
「ああ・・・ええと、ありがとう。」
「どういたしまして・・・お郷の言葉ですかっ?」
「せや、大阪の方。」
「大阪?」
可憐は、学校に行っていない。
この時代にはまだ義務教育が無いので、学校に行ってない少年少女なんて別に珍しくも何ともない。
だから別にそれを恥じたりはしないが、それはそれとして知らないことが多いのもまた事実であった。
「ここよりもっと西の方やな。」
「そうなんですかっ。ごめんなさい、私学がなくって・・・えへへっ。」
「別に悪いとか思わへんでええで。」
「そう?ですかっ?」
関西弁はまったくわからない可憐だが、なんとなく、言わんとしてる事はわかる。気がする。
(おおきにはありがとう、おおきにはありがとう・・・よしっ。覚えた覚えたっ。)
カランカラン、と呼び鈴の音を立てて扉が開くと、いつもの店内が自分を迎えてくれる。
「ただいま帰りましたあっ!ご新規のお客様1人ですっ。」
「案内します、こちらへどうぞ。可憐ちゃん、それ厨房に置いてきて。」
「はあいっ!」
言われた通り厨房に行くと、可憐は数人の同僚から一気に群がられた。
「ねえ、あの人何!?」
「かあっこ良いー!好みー!」
「知り合い?名前とか知ってる!?」
「し、知らない知らないっ!さっき入口で会ったばっかりっ!」
「なんだー・・・」
可憐が何も知らないとしても、彼の登場に裏方に居た女給たちは一気に色めき立った。
「いくつかなあ?」
「同い年くらいじゃない?」
「眼鏡かけてるってことは、お金持ちねー!」
「あの制服・・・」
「あ、鶴子知ってる?」
「確か、立海学園の。」
「立海・・・!」
「名門よ、名門!」
「インテリゲンチア、ってやつかしら!」
(頭良いんだなあ、あの人・・・・)
名門ということは、お金があるのもそうだけど、基本勉強できて頭が良いのだ。
さらに、ここに来る人は大体もっと年上なのだが、彼は多分同い年くらい。同い年とすると、多分15前後。成人になるやならずの段階でここに来る人も珍しい。
「・・・珈琲。」
「かしこまりました。」
一回だけ飲んだことがあるが、苦くてとても飲めたもんじゃないと可憐が感じた珈琲を、涼しい顔で頼む彼を見て、可憐はなんだかとても凄い人を入れてしまった気がした。