5周年記念企画:カサブランカの物憂い 前編 - 3/8


彼がここの常連になるのはあっという間だった。

それに伴って、可憐はぽつぽつと会話することも増え、いろんな事を知った。

彼は忍足侑士。
親の仕事の都合で東京に来た。将来は医者になるべく勉強しているらしい。

学校はやはり立海学園に通っている。
本が好きで、運動も好き。
年齢は15で同い年。今の所大阪に帰る予定は無いと聞いた頃、大きく安堵の溜息を吐く程度には可憐は仲良くなっていた。

「こんにちはー・・・あ、忍足君いらっしゃいっ。」
「ああ、可憐ちゃん。こんにちは。」

今日は昼から店番である。
可憐が卡薩布蘭卡亭に行った頃には、すでに忍足がもう来店していた。

「忍足君、今日は学校ないのっ?」
「なんや、不審者入ったらしいねんて。点検で一斉休校や。」
「そうなのっ!?大変だねっ。」
「まあ、俺自身が大変なわけやないけど。でも、可憐ちゃんも気つけえや。変な奴おるし。」
「おる・・・あ、居るってことかっ。うんっ、ありがとうっ!」

そうは言っても、自分なんてただのどこにでもいる庶民の娘だし。危ない目に遭う謂れなどないし。

それよりも、可憐は忍足がさっき言った休校という言葉の方が気になる。

「・・・・それって、課題っ?」
「せやねん。ぼちぼち試験やさかい。」
「そっかあ・・・」

全然自慢じゃないが、可憐は学校に行った事が無い。
もっと正確に言うと、家と、卡薩布蘭卡亭以外の世界を知らない。

課題って何なのか知らないし、休校になるとどうなるのかも知らない。

今まで、さして興味もなかった。
知識としてそういう世界があることだけは知っていたけれど、心理的にはお伽噺とさして変わらなかった。

でも忍足は、学校に通っている。
学校どころか、話を聞いていると忍足は実にさまざまな世界に顔を覗かせている。

社交界や。
財界や。
政界や。

そして可憐が、それを覗ける機会はない。
おそらく、一生ない。

ボーン・・・ボーン・・・・

「ああ、もうこんな時間か。そろそろお暇しよかな。可憐ちゃん、お勘定・・・可憐ちゃん?」
「ああっ!は、はいっ!じゃあええと、願いましては、」

自分ができる学問なんて、簡単な読み書きとそろばんくらいだ。
それだけ。

それだけで良いのに。
それだけあれば、生活に不自由ない程度には暮らせるのに。

なぜこんなに寂しいのだろうか。

「可憐ちゃん。」
「はいっ!どうしたのっ?あっ、もしかしてお釣り間違ったっ!?」
「合うてるで。そうやのうて、ちょっと世間話やねんけど。」
「うんっ?」
「可憐ちゃんて、非番の日とかあるん?」
「えっ?」
「来る度に居るし、もしかして休みて基本ないんやろかて思うて。」

この時代に週休二日制とかそういうのはない。
労働基準法もない。
有休もない。

毎日働いて当たり前。休みは正月だけとかそういうのも珍しくも何ともない。

そういう意味では、確かに非番の日なんてほとんどない。ほとんどないが。

「ないけど、休もうと思ったら休めるよっ。」
「そうなん?」
「うんっ。確かにほとんど休まないけど、用事のある日とかは、お休みさせてもらえるしっ。」
「ほんなら、今度の土曜日休まれへん?」
「え?」
「良かったら出かけよ。一緒に。」

きゃあーっ!と盗み聞きしていた同僚たちの歓声が裏から聞こえてきた。
そのせいで可憐は、喜んでを二回真っ赤な顔で言う羽目になった。