朝一で集まって、皆昼には解散した。
卡薩布蘭卡亭も、今日は休業日にしてもらったから、普段出入りする客や従業員、店主は来ない。
可憐と忍足だけの空間で、忍足は自分の手をじっと見ていた。
右手を開いて。
閉じて。
開いて。
「・・・忍足君、右手どうかしたのっ?あっ!もしかして、窓を割った時の怪我がまだ、」
「ああいや、逆やねん。」
「逆っ?」
「えらいきれいな治りやな、て思うて。」
もう二度とまともに動かない可能性は、まあまあ高い。
それが忍足の見立てであった。
事実、窓から出るべく可憐を抱き上げた時。
脳内麻薬の作用で痛いとかそういうのは感じなかったが、すでに人差し指は動かなくなっていた。
ああ、神経をやられたな、と思ったものだった。
同時に、まあ良いか。とも思った。
どうせ死ぬのだ。死んだら指の神経がやられたからって、何だというのか。
そう思ったのに。
どうやら忍足達を助けてくれた物の怪かなんだかは、随分未来に希望を持たせるのが好きらしい。
「・・・忍足君、喉乾かないっ?」
「うん?」
「珈琲淹れるねっ!私、これなら一人でやり方わかるよっ!」
可憐は、そそくさと珈琲を入れる準備を始めた。
助け出されて以来、可憐は忍足にどう接すれば良いのか、わからなくなっていた。
気まずいというのとは、やや違う。
自分でも自分がよくわからないのだ。
何か言いたいことがあるような気もするし、ないような気もするし。
聞きたいことがあるような気もするし、ないような気もする。
『じゃあもう良いよっ!ずっとここに居ようよっ!私、忍足君が死んだ後に一人で生き残るのなんて絶対嫌っ!』
本当にそう思ったのだ。
だからそう言った。
自分を残して忍足が死ぬのなんて嫌だったから。
でも、今自分と忍足は生きている。
そのことに満足していてー--満足しすぎていて、胸がいっぱいで。
だからだろうか。
どうも他のことは、どうでも良いように思えてしまうのだ。
暇さえあれば、ぼんやり忍足を見てしまう。
そして椅子に座ったり会話したり、身じろぎしたりしてるのを見て、ああ、生きてる。とか思ってしまう。
可憐は今、一種の錯乱状態と言っても良かった。
死ぬ寸前から、急に五体満足で安全な環境になったせいで、頭がついていってないのだ。
頭だけ未だにあの火事から脱却できてない、とも言える。
なんだか、生きてることが急に不思議で不思議でたまらない。
目を離したら、忍足が消えてるかもしれないとか、そんなことを考えてしまってしょうがない。
忍足も、そんな可憐の様子を察していた。
どういう状態なのかなんとなくわかるし、そして無理も無いと思う。
ただ。
それはそれとして、自分はもう当の昔にそういう段階を脱却してはいる。
今は。
「どうぞっ。」
「おおきに。」
「あ、あれっ?」
忍足は、おおきにと言いつつ食器を自分の目の前から、前方へ遠ざけた。
どうして。
可憐がそう思った次の瞬間には、可憐は忍足に引き寄せられて、腕の中に居た。
「・・・・お、忍足くん、」
「好きや。」
可憐を抱きしめる。
ああ。動く。
忍足はそう思った。
右手に力が入る。
自分の手が動くことの有難みは、もう何度も噛み締めた。
でも今ほど感謝したことはないし、これから先も無い気がする。
「ほんまは、ガス灯のとこで言おうかと思うて。」
「え・・・・?」
「結局もう少し雰囲気考えたいなと思うて、止めにしたんやけど。ほんまに後悔したわ。」
あんなことになるくらいなら、言えば良かった。
あの夜忍足は、何度も何度も思った。
おまけに十手団のやつらは、こっちの気持ちも考えず、いけしゃあしゃあと可憐を好きな女と呼ぶ。
それは事実だけど、あんな風に伝えたくて黙ってた気持ちじゃない。
また次に。次に。
そうやって過ごしていった結果があれだと言うのなら、命が伸びた今、今度こそちゃんと言おう。
何が何でも。
忍足はそう心に決めていた。
「堪忍な、怖い目に遭わせてもうて。」
「・・・・・う・・・・」
「でも、何とかこうして・・・可憐ちゃん?」
「うううう~~~・・・!」
忍足はちょっとぎょっとした。
可憐は涙をぽろぽろ零しながら、忍足を睨みつけていた。
「可憐ちゃんー--」
「じゃあどうしてあんなことするのっ!」
「あんなこと?」
「わた、わた、ひっく・・・私が好きって言うんだったら、どうして一人で死んじゃうようなことするのっ!」
「それは、」
「そんなこと言われて、私、私・・・それで今度こそ一人になったら、どうしたら良いのっ!」
家族は居るけど。
友達も居るけど。
でも、忍足は居ない。
そういう世界を一度思い描いて、それは何とか一度遠ざかった。
でもあの火事の日みたいなことが、また無いなんて保証はない。
今度こそ死ぬかもしれない。
自分を抱きしめる腕の力強さも。
聞こえてくる鼓動も。
伝わる体温も。
今度こそ全部なくなるかもしれない。
そして忍足は、眉一つ動かさずそれができる人間なのだ。
愛されているのだ、とは思う。
思うし、そう言えば聞こえは良いけど。
でも生憎、自分は忍足ほど高尚でも高潔でもない。
可憐にはその自覚がある。
「私のことなんて、好きじゃなくて良いよ・・・」
「・・・・・」
「それで良いから、死ぬなんて言わないで・・・」
可憐は、生きていたい。
それに生きていて欲しい。
忍足が自分を好きであるせいで、死の確率が上がるんだったら、好きになってもらわなくて良い。
「・・・・堪忍な。」
「ひっく・・・ひっ・・・」
「なるべくもうせえへんから。」
「・・・なるべくっ!?」
「悪いねんけど、絶対せえへんとはなかなか言われへんなあ。」
「忍足君、私の話聞いてなかったでしょっ!」
「可憐ちゃんも、俺の言うたこと覚えてる?」
「へ・・・」
「俺かて、可憐ちゃんが死んで俺だけ残るとか、絶対嫌やで。好きやねんから。」
だから、そうなるくらいなら自分が死ぬ方に回った方が良いと思った。
この気持ちだって、最後に言っとこうみたいな気もなかった。
言うと、可憐はそれを持って生きて行かないといけないから。
これは、自分の持ってる自分の気持ちだから。
それを可憐に押し付けるような真似はすまい。
何も知らなくて良い。ただ生きていってくれれば。
そう思っていたけど。
自分に生きていて欲しいと言ってくれるんだったら。
一人で生きるより一緒に死ぬ方を選ぶというんだったら。
「今度は、妖怪やったか何やったかの手借りへんでも、揃って残れるようにするさかい。」
「・・・・・・・うん、」
「せやから、付き合うてくれる?」
「うん・・・付き、え?」
「あかん?」
ああでも。
(この聞き方はもしかして、俺を死なせたないんやったら付き合え、て言うてるように聞こえるんやろか。)
「これはこれであかんか。」
「だ、駄目じゃないよっ!」
「え?」
「だ、だからっ!えっと、だからその、ええと、忍足君はもう死なないで居てくれるわけだから、だから、えっと、えっとー--」
腕の中で狼狽える可憐の姿に、忍足は静かに微笑んだ。
このまま言葉を待っていても、それはそれでまあ良いんだけど。
大事なのは言葉じゃなくて、気持ちなので。
「可憐ちゃん。」
「あのー-え?」
引き寄せた唇が重なった時、忍足はちゃんと意志のとおりに動いてくれる右手に、今日何度目かの感謝をした。