こうして見合いは反故になり、それは千百合には良いことだったが、それはそれとして千百合には疑問があった。
あの男、間違いなくあの瞬間足を滑らせていたが。
でも、あの後現場を振り返っても、足を滑らすようなものは何も無かったのである。
千百合も、元あの男が居た位置に立ってみたりもしたが、千百合は滑らなかった。
他におかしいものもなかったし。
この疑問が解決したのは、見合いからさらに3年後。
中等部への入学が目前となった日の夜であった。
「じゃあおやすみなさーい!」
「明日はちゃんと起きろよ。」
「頑張りやす!でも駄目だったら、千百合っちが起こしてください!」
「なんで私よ。」
はあ、と溜息を吐くのももう疲れた。
五十嵐紀伊梨。
彼女は千百合のお付きとして、幼少の頃より出入りしていたが、千百合ももう適齢期が近づき、いよいよ女性としての振舞を見られるようになってきた。同時に、思春期も訪れた。
そのため、お付きの人も「誰でも良い」というわけにはいかなくなってきており、気心知れていて、かつ同性である紀伊梨の出番は増えていった。
明日の中等部入学もそう。
自分の進路に合わせて、紀伊梨は立海に入学する。
ある意味では、紀伊梨は幸せなのだろう。
学費は黒崎家持ちで、本人の実家の経済状況からしたら、絶対入れないような名門に入れるのだから。
ただ、紀伊梨はそれを望んでいるんだろうか。
本人はまだ、進路がどうのということを深く考えてないようなのだが、それで良いのか。
人知れず千百合が寝室で溜息を吐くと、窓からこんこんと音がした。
「・・・?」
ここは2階である。
昔は1階だったが、去年から、より広い2階の部屋に自室が移った。
だから、窓を叩けるものなんて居ないはず。
と思いながら窓にかかっている帳を開けて、千百合は大層驚いた。
庭に植えられた木に腰かけて、窓のすぐ側に少年がーーー幸が座っていた。
窓越しに目が合うと、幸は微笑んだ。
千百合はそれを見てーーーちょっとむしゃくしゃしたので、窓を閉めたまま幸を睨みつけた。
幸が驚いたような顔をして、それでちょっと溜飲は下がったがーーいやでも。
(三年って。)
前会った時、次はもうちょっと頻繁に来ると言ったのに。
4年が3年になっただけじゃないか。馬鹿にしてるんだろうか。
「・・・・・・・」
千百合はそのまま寝台の上に座った。
認識はしてるけど、開けてやる気はないという意思表示だった。
幸が困惑したような顔になっているのも気配でわかる。
千百合は、自分自身どうしてこんな意固地になっているのかわからなかった。
遠い親戚みたいなものじゃないか。
久しぶりじゃん、そう言って開けてやればいいのに、どうしてもやる気にならなかった。
ーーーー寂しかったから。
今度はもっと早く会えると思ったのにーーーいや、4年間を置かれた頃に比べたら、1年は短くなってるんだけどーーーそれでも3年は長い。
会いたかったのに。
数日おきに窓を見るのにもう疲れ果てたのが2年前。部屋まで変わって、ああもう一生会えない流れもあるなと思ったのが1年前。
ところが当の本人は久しぶりとかそういう感慨も何もなく、まるで昨日も会ったかのような微笑を浮かべて、人の部屋の窓を叩いているのだ。
そう思うと、どうしても手離しで喜べない。
こうしてる間に、幸がすっと帰ったら後悔するとわかっていてもだ。
こういう所が千百合はまだ13になるやならずの少女たる所だった。
もうどうすれば良いかわからなくなって、千百合が下を向いた。
その数秒後だった。
パン!
「え、」
軽い音がして顔を上げると、千百合は何もしていないのに、窓は勝手に開いていた。
幸が開けたのか。
いや、そんな筈はない。そもそも、内側からしか開けられないようになっているのに。
しかし、実際窓は開いてしまっているのだった。
夜風と月明りと一緒に、幸はひらりと窓まで来て、そのまま窓枠に座った。
「・・・どうやって開けたの。」
「ああ、ちょっとね。」
やはり幸が開けたのだ。
ちょっとって。
「あんた、天狗の弟子?」
千百合は聞いたことがあった。
江戸時代には、天狗に弟子入りしたとかそういう少年が居て、不思議な力を使ったらしい。
幸もその類だろうか。
そう考えて尋ねると、幸は一瞬目を丸くしてから、声を上げて笑った。
「あはははは!あはははは!」
「・・・・」
「ふふふ、ごめんね、つい。天狗か・・・もし弟子入りできるとしても、嫌かな。」
「・・・あっそ。」
「ところで、どうしたの。」
「何が?」
「なんだか、不愉快そうな顔をしているから。何か、嫌なことでもあったのかと思って。」
煽ってるのか。
と一瞬千百合は思ったが、幸は本気で「何を嫌がってるのかわからない」とでも言いたげな困惑顔をしていた。
それを見て、ちょっと胸のすく思いがした。
「・・・来ないから。」
「うん?」
「もっと頻繁に来るとか言ってたのに。」
言いながら、千百合は顔にちょっと熱がこもるのを感じた。
言葉にしてみると、いかにも子供っぽい。
要は拗ねてただけなのだ。
千百合は、幸の事情を知らない。
なんとなく育ちが良いこととか、年が同じくらいのことはわかるけど、どこに住んでる誰だとか、親の仕事とか普段どれくらい忙しいのかとか、何も知らない。
知らないくせに、勝手にもっと会えると思って、当てが外れて、勝手に怒っているだけ。
身勝手な奴と呆れられるかもしれない。
もしくは寂しかったのかと笑われたり揶揄われたりとか。
こっちだって暇じゃないんだと怒られる可能性もあると思う。
別に約束したわけでもあるまいに。
幸の顔をまともに見られず下を向く千百合に、幸は小さく口を開いた。
「ああ・・・・」
その声音は、なんだか何かに納得したような響きを持っていた。
千百合の思考がわかった、ということだろうか。
でも、視線を少し上げて捉えた幸の顔は、納得というよりも、何か呆然とした表情をしていた。
納得したような声を上げてるのに、顔は予想外のものを見たみたいな顔をしている。
幸は会ってからこちら、基本ずっと微笑んでいるので、今日は珍しい表情をよく見る日だと千百合は思った。
「・・・そうだ、お見合い。」
「は?」
「お見合いって、どうなったかな?もう話は無くなった?」
「いつの話してんのよ。3年前に無くなってるわ。」
結局あの見合いは、あれ以降再浮上の気配もなく、そのまま流れた。
結局、あのときあの男が滑った理由は、今もってわからないままなのだが。
「そう、良かった。」
「良かった?」
「乗り気じゃなかったんだろう?」
「まあ。」
「相手は諦めたのかな?」
「まあ、もう良いってなったんじゃない。格好悪い所を見せたのが堪えたんでしょ。」
はっきり言って、転んで池にはまる光景とか、無様以外の何物でもないのだ。
しかも、格好つけようとした矢先に。
「まあ私は気にしないけど。」
「そうなのかい?結構しっかり落ちていたけど。」
「落ちたことより、あの態度からの落ちるって言うのが・・・待って。」
「うん?」
「見てたの?」
今、幸は「落ちていた」と言った。
千百合は格好悪かったとは言ったが、池に落ちたとは言ってない。
何故落ちたことがわかるのか。
「・・・もしかして、何かした?」
千百合が聞くと、幸はちょっと笑って小さく舌を出した。
本当か。
本当にやったのか。嘘だろ。
「はあ・・・・」
「余計だったかな?」
「余計ではないけどーーーいやまあ、うん、まあ・・・・」
出てくれば良かったのに。
と思ったが、あの場合出ろというのも難しいのはわかる。
「どうやってやったの?」
「ちょっとね。」
言う気はないのだろう。
さっきの窓開けも同じだ。
笑っていたけど、本当に天狗の弟子なんじゃないだろうか。
本当に自分は、彼について知らないことが多いと千百合は思う。
ただ。
教えてくれそうにない気配が濃いのも察している。
知らないことが多すぎて、不審者と言っても過言ではないのだが、千百合はなぜか幸に危険意識を持てない。
それは幸から敵意を感じないからかもしれないし。
もしくは齢6つの時かそこらからの知り合いだからかもしれないし。
あるいはその両方かもしれない。
「・・・前から思ってたけど。」
「うん?」
「なんで正面から入って来ないの?」
大人ならいざ知らず、身なりの良い子供である。
千百合の知り合いだと言えば、とりあえずすぐには追い出されないだろうに、幸はわざわざこうして人目を忍ぶようにやってくる。
尋ねると、幸は事も無げに言った。
「ばれると面倒だから。」
「何が?」
「俺がここに来てる事。君の家族はまあ許してくれるとしても、俺の方はね。」
「お仕置きとかされるの?」
「ううん。俺にお仕置きできるような相手は居ないよ。でも、小言はうるさいから。」
こう言っちゃなんだが、千百合はお嬢様である。
なのに千百合の家に来るのを見とがめられると言うことは、幸の家は相当の名家だろうか。
「これも、相当言われたんだよ。」
「これ?」
「君がくれた飾り釦。どこの誰から貰ったのか、って。口出しするなって突っぱねたけど、危うく取り上げられる所だったよ。」
「え、嘘。あげない方が良かった?」
「まさか。そういう意味じゃないんだ、誤解させたらごめんね。返してって言われても困るよ、俺はこれが気に入ってるんだ。」
ふうん、と千百合は言ったが、あげたものを気に入ったと言われるのは、悪い気がしない。
「来る間隔が3年になるのもそのせい?」
「ううん、まあ・・・俺は3年って、そんなに長いと思わないんだけど。」
「嘘でしょ。」
3年って、中等部に入った人間が卒業するまでの時間である。
長いに決まってる。
幸の時間感覚にだけは、千百合はついていけそうにない。
「・・・次来るのはいつ?」
「ううん、3年でも長いって言われたから・・・1年後でどうかな?」
「長い。」
千百合が言うと、幸はおかしそうに大きく笑った。
「じゃあ、半年。どうかな?」
「それならまあ。」
「ふふっ!決まりだ、じゃあまたね。」
「それはそれとして、今度は正面から来たらどう。」
「でも、」
「小言は言われるかもだけど、捕まるより良いんじゃないの。最近十手団出てるから、本物の不審者と間違われたら、小言じゃ済まないわよ。」
十手団とは、最近華族を中心に盗みを働く強盗集団である。
計画的かつ人数が多く、一部軍人崩れまで混じっていると言われる。
狙われるのは、決まって華族。
庶民や、外国人は標的から外れる。
黒崎家は華族なので十手団の活動には日々気を揉んでいる。
そのため、初めて会った7年前よりも他人に対する警戒が厳しくなっているのだ。
おまけに千百合は、幸のことをほぼ何も知らない。庇おうにも、庇ってやるだけの材料がない。
幸は一瞬驚いた顔をしたが、直後声を上げて笑った。
「あははははは!」
「・・・今度は何よ。」
「いや、ごめんね、つい・・・あはは!うん、でもそうだね。心配は当然だけど、俺は大丈夫だよ。この家も、大丈夫。」
「大丈夫って。」
「大丈夫だよ。」
そう言うと、幸は遠くを見るように目を細めた。
思考の読めない目つきだった。
千百合は諦めて、それ以上何も聞く気が起きなかった。