次の機会を半年としておいて良かったと、千百合は入学してすぐに思った。
とにかく早く幸に会いたかった。
会って相談したかった。
(一応、今日がぴったり半年か・・・)
まあ、きっちり一日もずれることなく、半年後に来いと言う気はない。
あくまで目安だ。明日かもしれないし、明後日かもしれないし。
そもそも、覚えているかわからないし。
千百合は天井を見上げて、はあ、と息を吐いた。
ここは放課後の教室である。
夕日が差し込んでいて、他にはもう誰もいない。
紀伊梨は帰らせた。
彼女は相当まずい。学力という意味で。
次の試験で点を取れなければ、真面目に留年もあり得る。
だから今日は早く帰らせて、自習を促したのだ。
そろそろ、紀伊梨じゃない誰かが迎えに来るはず。
校門まで行こう、と窓に背を向けた時、その窓が背後でカラ・・・と開く音がして、振り返った。
「やあ。」
幸が、笑って窓枠に寄りかかっていた。
自宅と違って、ここは1階だ。そういう意味では、不思議じゃない。
不思議じゃないけど。
「どうやって入ったの。」
「普通に入ったよ?」
「嘘吐け。」
立海は名門私立だ。
子供といえど、許可の無いものは入れない。千百合のお付きでさえ、校門を通ることは許されていない。
完全に部外者である幸が入れる筈など無いのだ。
それなのに。
「・・・幸って、立海生なの。」
「いや?ああでも、ここは良い学び舎だね。好きな感じだよ。」
幸はしげしげと教室を眺めた。
「幸は学校嫌いなの。」
「うん?」
「通ってない、ってことないでしょ。まさか。」
幸の家柄についてはよく知らないが、幸の育ちが良いのは窺い知れる。
まさか教育を受けてないはずはない。
しかし幸は、通ってないよ、とあっけらかんと言った。
「嘘。」
「嘘じゃないよ。」
「じゃあ読み書きとかどうやって習うのよ。できなくないでしょ、あんたの様子じゃ。」
「別に、学校に来なくたって習えるさ。知ってる先生が居ればね。」
「ああ・・・ははあ。」
なるほど。
専属の家庭教師がいる感じなのかもしれない。
確かにそれなら、学校に通う必要はない。
なんとなく幸が浮世離れしてるというか、箱入りっぽい感じがするのも、そういう理由なら頷ける。
「まあ良いや。ちょっと相談したいことがあったから、今の内聞いちゃう。」
「俺に?何だい?」
「友達が面倒な男に言い寄られてたら、どうすべきかな。」
千百合が尋ねると、幸村は驚いた様子もなく、むしろ予想がついていたとでも言うように目を細めて微笑んだ。
「高等部の切原赤也、っていう男子のことかな。」
「知ってるの?」
「この辺りは、たまに通るし。何より、五十嵐さんも彼も声が良く通るからね。」
「ああまあ。二人して喧しい方ではある。」
「それで、彼は五十嵐さんが好きなのかい?」
「そう。」
「君は、五十嵐さんが心配?」
「そう。」
「別に、彼は言うなれば庶民の出だし、袖にしておけば良いと思うけれど。」
そう言ってにっこり笑う幸は、おそらくすべてを知ってるのだろう。
千百合は大きく溜息を吐いた。
「彼女も、切原君が好きなのかな。」
「自覚は無いみたいだけど多分そう。」
無下に追い払えないのは、それが理由である。
多分、遠ざけたら紀伊梨も参ってしまう。
切原ははっきり言ってどうでも良いのだが、紀伊梨はそうはいかない。
「まあ、あっちは3つ・・・あれ、4つだっけ?まあそのくらい年上だし。高等部卒業して就職したら、学生のこっちとの付き合いはーーー」
「ああ、それはなくならないと思うよ。」
「え。なんで。」
「小耳に挟んでね。彼は立海で教職に就くつもりのようだから、千百合達が高等部に進んだ時には、多分教師として教鞭を振るってるよ。」
「嘘。」
放っておいたら縁が切れる。
という線が、これで消えてしまった。
むしろ、担任になったりなどしたら、関わりは今より増えるかもしれない。
「・・・・・・」
「そんなに嫌かい?」
「まあ。」
「何故?」
「だって彼奴、気が短いんだもん。幸は知らないかもしれないけどさ。」
こう言っちゃなんだが、紀伊梨は短気な人間と相性が悪い。
動きは早いが、無駄が多いのだ。
「すぐ喧嘩別れしそうじゃん。」
「でも、そういう所を承知で好きなんじゃないのかい?」
「それがよくわかんないのも得体がしれないんだって。なんで彼奴、紀伊梨を気に入ってるんだろ。」
「まあ、好きってそういうものだから。」
その言葉に、千百合はやや目を眇めた。
好きってそういうもの。
なのか。
「・・・私知らないわ。」
「え?」
「人をそういう意味で好きになったことないから。」
このことも、千百合が強く出られない原因の1つだった。
千百合は恋をしたことがない。
だから、「お前に何がわかるんだ」と言われたら、もう終いである。
幸は誰かを好きになったことがあるのだろう。
今の口ぶりからすると。
「幸って、どうやって誰かを好きになんの?」
「え?」
「想像で悪いけど、あんた誰かを好きになってる暇あるの?忙しくない?」
これは完全に推測だが、千百合は幸のことを、すごく忙しいかすごく箱入りかどっちかと思っていた。
この浮世離れ感と会いに来る頻度からして、暇が無いか、家からほとんど出られないかどちらか、と疑っていた。
それなのに、どうして恋する暇などあろう。
そんな相手と会う機会などなくないか。
と千百合は思った。
幸は、ううん、とちょっと答えに悩んだ風を見せた。
「・・・まあ、最近無いのは事実かな。」
「前はあったの?」
「あったよ。といっても、もう随分前だけど。近所の子だったな。」
「ふうん。玉砕したの?」
「死んだよ。」
ぴたり。
と音がするほど、一瞬で、千百合の動きが止まった。
「・・・・ごめん。」
「良いよ、あんまり気にしないで。もう過去のことだし、乗り越えたことだから。」
幸は、悲し気に目を伏せはすれど、穏やかな声音で続けた。
その様子は、その誰かのことが完全に思い出として昇華されていることがよくわかった。
「別に、特に不幸だったとも思ってないんだ。確かにちょっと早死にではあったけど、あれはあれで彼女の寿命だったんだと思う。そもそも俺の周りには、俺より早く死ぬ方が多いし。」
「は?」
幸より早く死ぬ人が多い。
しかし、幸はまだ13程度の年であろう。
それなのに、その幸より早く死ぬ人間の方が、幸の周りには多いと言う。
(・・・医者か、祈祷師とかか。)
それなら頷ける。
周りに、今まさに命の灯が消えようとしている存在が多いから、死が当たり前みたいになっているのかもしれない。
ということは、その恋した相手も、おそらくなんらかの病だのなんだのを患っていた可能性が高い。
千百合は、不用意に聞いたことを後悔した。
「・・・切原のこと。」
「うん?」
「認めてあげようかな。」
「急にどうしたんだい?」
「いや、ちょっと。見識が狭かったなって。」
明日も、明後日も。
紀伊梨も切原も、生きてる保証なんて無いのだ。
それなのに、単に「気が合わなさそうだから」という理由で、主人たる自分が従者の紀伊梨に恋愛の制限をするような真似に走る資格はあるのか。
そんなものありはしない。
千百合はそれがわかった。
「ありがと。」
「何が?」
「結論が出たから。」
「あはは。まあ、よくわからないけど、解決したなら良かったよ。」
幸は、普段通りの顔で笑っている。
今さっき、苦い思い出がふいに出てきたとは思えない顔で。
この心境に至るまでに、幸はどんな夜を何度超えたのだろうか。
千百合にはわからない。
「ねえ。」
「うん。」
「・・・・次はいつ会える?」
その人が死んだのは。
私がいくつの時だった?
とは、聞けなかった。