いつの間にか千百合は、中庭に立ち竦んでいた。
膝を見たが、何もない。
もう引っ張られる力も感じない。
辺りも騒がしかった。
屋敷中の照明が落ちているらしく、動く人質に怯える人質、十手団も何か行動を起こそうとする者や状況把握を優先する者など、しっちゃかめっちゃかになっていた。
千百合の目の前には、門扉が開いていた。
そして。
「た、助けてえええ!」
振り返ると、さっき千百合の見張りをしていた男が、婚約者を捕まえていた。
1人でも捕まえておけば、後からどうとでもなると考えているのだろうか。
「た、助けて・・・助けてください・・・ねえ・・・」
婚約者は、千百合の方を見ながら、すごく情けない声をあげた。
捕まえた十手団側の方も溜息を吐くほどだった。
「お前、こんなのとよく婚約したな。捕まえておいてなんだが、つくづく思うぜ。」
(・・・ね。)
自分でもそう思う。
よくこんなのと婚約した。
ただ。
「・・・離してやってくれる。」
「え?」
「私が、もう一回人質になるからさ。」
どんなのだろうと、どうでも良かったのだ。
千百合は、つくづく今そのことを痛感した。
自分は思った以上に、幸が好きだったらしい。
幸じゃないなら誰でも良いと、本気で心底思える程度には。
だから、目の前の保志のこともどうでも良い。
どうでも良いけどーーー少なくとも保志が、自分より強く生きたいと思ってることは確かだ。
命が惜しいと思ってる。
幸せになれると思ってるし、なりたいと思っている。
それなら譲ろう。
この命。
どうせそこまで、生きていたくはないから。
「ほら。」
「・・・・・」
「ひいい・・・」
「離してやってって。」
千百合は近づいていき、唖然とする見張りの男の腕に、手をかけようとした。
「・・・どうしてそんなことになるんだい。」
空気が変わった。
喧騒は一瞬で消え、大勢の人の気配も消えた。
人間とか銃とかの匂いは消えて、香みたいな匂いが鼻をくすぐった。
目は見えない。
何か当てられて、塞がれているのを感じる。
真後ろから声が聞こえる。
もう一生聞かないかもと思っていた声だ。
「せっかく見せたのに。」
「せっかく見せた?」
「彼が、結婚相手としてどんなに相応しくないか。」
「あははっ。」
千百合は笑ってしまった。
「ふふ・・・ふふふっ。あはははっ。」
「笑うようなことがあるかな。」
「だって相応しいとか言うから。」
「それがおかしいことかい?」
「私ほど結婚に相応しくない人なんて居ないよ。」
自分でも酷いな、と千百合は思う。
どうしても好きな人との結婚じゃなきゃ嫌だ嫌だと、内心で駄々をこね続けて。
叶わないならじゃあ誰だって良いわと結婚に投げやりになり。
最終的には投げやりどころか、生きようとする意思も一緒に放り投げる始末。
保志のことをくだらない人間だという人は、多分世の中に居るだろう。
でも、こと結婚に適していない人間かどうかは、自分が随一だと千百合は思うのだ。
「・・・・・・」
「あいつどうなったの?」
「・・・あの男のことかい?」
「そう。生きてる?生きてるなら、他の誰かとでもまだ結婚できる芽がーーー」
視界が開けたのと、口が閉じたのと、腹部に引き寄せられるような力が入ったのは同時だった。
幸の右手は千百合を後ろから抱き寄せていて、左手は口を塞いでいた。
開けた視界には見たことない庭園のような景色が広がっていて、明らかにさっきまで居た所ではないのだが、そんなことはどうでも良かった。
何も言えないーーー物理的に何も言えなくなった千百合の後ろで、幸は聞こえるような大きな溜息を吐いた。
「どうしてそう、まっすぐ歩いてくれないのかな。」
まっすぐ歩くって何だろうか。
「俺は、千百合に幸せになって欲しいのに。」
「家族に愛されて、何不自由ない暮らしをして、長生きして欲しいんだよ。」
「だから逃がそうと思ったんだ。」
「賊からも、あのろくでもない婚約者からも。」
「どうして戻って来るんだい、用なんて無いのに。」
どうしてと言われて千百合が笑うと、口の動きからそれを感じたのか、幸の手は離れていった。
千百合が振り向くと、幸はいつもと違う様相でそこに立っていた。
頭の上に獣みたいな白い耳があり。
足下にも毛皮があると思ったら、それはえらくつやつやした毛並みの、九本の尾なのだった。
いつも着ている洋服ではなく、今は狩衣みたいなものを着ていたが、胸元にカフス釦はついたままで、千百合はまた笑った。
「聞いたことなかったけど聞いて良い。」
「・・・うん。」
「人間じゃなかったの。」
「俺は狐だよ。大体1500才くらいかな。」
幸は、なかなか会いに来なかったのではない。
幸なりに、頻繁に会いに来ていたのだ。1500才生きてる身からしたら、数年なんてあっという間だ。
「可憐を助けたとか、丸井が変な夢見たとかも、幸がやったの。」
「やったよ。千百合が喜ぶと思ったし、まあ、少しは俺のせいだし。」
「幸のせい?」
「箱に入ってたのは、俺だからね。」
自分で開けられないのは、幸自身が内部に入っていたからであった。
まさか200年ほど眠ってる間に、賊に追われる身になっていたとは思いもよらず。
「あと、春日さんは俺が作物を食べられるようにって、庭の狐採りを取ってくれたし。」
「はー。なるほど、その程度のことでそんな恩感じるんだったら、私の面倒見てくれたのも納得いくわ。」
「ん?」
「私が解放したから、世話焼いてくれてたんでしょ?別に大したことしてないから、気にしなくて良かったのに。」
足繁く通ったり、良い婚約者を選定したり、賊から助けてくれたり。
幸に世話になっている自覚はあった。
でももう十分だ。
「なんでそこまで色々してくれるんだろうって、ずっと思ってた。」
「・・・・・・」
「もう良いよ、ありがと。私も家族も友達も、五体満足で皆生きてるし、感謝してるしーーー」
「違う。」
幸は少し眉根を寄せた。
「そんな理由じゃないんだ。確かに千百合の友達を助けたのは、恩義とかそういう気持ちがあったけど、これは違う。」
「箱の恩義は感じてないの?」
「俺は君が好きなんだよ。」
幸は苦しそうに笑った。
観念しました、と顔に書いてあるようだった。
「開封の恩だとか、俺のせいだからとか、そんなの言い訳なんだ。千百合に会わないで助けることなんていくらでもできるし、別にあんな風に通う必要もなかったし。実際、身内からはまあまあ言われたしね。」
「怒られたの?」
「怒られたというか、不審がられたというか。なんだか最近人間にうつつを抜かしてないですか、って。」
「え、ごめん。頻度上げてとか言わなきゃ良かった。」
「良いさ、別に。千百合が言ってくれなかったら、多分俺から言い出していたから。」
千百合は夢の中で会話してるような気持ちだった。
落ち着いてはいるが、落ち着きの理由は現実と地続きの出来事と思えないからであった。
今の状況とか、目の前の幸の様子とか、話す内容とか、何もかもが。
「今度はこっちから聞いても良いかい?」
「・・・どうぞ。」
「俺と結婚して欲しいんだ。どうかな?」
千百合は鼻の奥が痛くなった。
幸はこともなげに言ったけど。
でも、今に至る前の間に、多分本当にいろいろ考えてくれたんだろう。
考えないわけがない。幸の性格上。
「返事は、急がないよ。ちゃんと考えてーーー」
「もう考え終わってる。」
「・・・そう?」
「うん。不束者ですが、よろしくお願いします。幸ーー」
「ああ、ごめんね。それ。」
「ん?」
「実を言うと、幸って綽名なんだ。本当の名前は、特別な人にしか教えちゃいけなくって。」
「あ・・・そう。なんだ。」
「うん。俺は本当はね、
幸村精市 っていう名前なんだ。」
結構近いな。
と思って、千百合は自覚なく微笑んだ。
近い名前を教えてくれていたんだなと思った。
「これからは、呼んでくれて良いから。」
「うん。」
「・・・呼んで。」
精市。
呼んだ瞬間、視界が白くなった。