昔、昔のことでありました。
湘南は江の島にあります、葉玖戸神社には祭られている神の他に1体の精霊が住んでおりました。社の主は、気位が高く自分に正直で、美しい目の色をしたこの精霊を大層気に入りここに住むことをよしとしていたのでした。
ところがある日のことです。
精霊は人の姿に化けて、麓の人里に遊びに降りました。
そして里に住む、人間に恋をしたのでした。
言葉を交わしたわけでもなんでもありませんでした。ただ、一目見てその者にすっかり心を奪われてしまったのです。
精霊はそれから幾度も人に化けて山を下り、彼の人間に会いに行きました。
精霊と人間という大きな違いを分かっていても、それでも精霊は恋しい相手を忘れられなかったのです。
やがてそうとは知らない人間の方も精霊を恋しく思うようになり、やがてお互い愛し合うようになりました。
しかしこれを良しと思いきれない存在がありました。
社の神です。
神は精霊が嬉しそうに過ごしている事には祝福の気持ちを抱いていました。
ですが同時に、精霊が人間に真実を告げないままに愛を誓いあっていることがとても気になっていました。
いつも誰にでも正直な精霊が気に入っていたからこそ、慕わしい相手に自分を隠し続ける今の精霊の態度が、神にはどうしても我慢ならなかったのです。
そしてとうとう、その日がやってきました。
しびれを切らした神は人里に降り、人間に恋人が本当は人ならざる者ーーー精霊であるという真実を告げたのでした。
狼狽する人間に神は続けてこう告げました。
「この真実を知って尚、お前があの者を愛すると言うのならば、満月の晩にこの社へと参り鈴を鳴らせ。愛せぬと言うのならば、二度と現れるな。」
社にてそれを告げられた精霊は激昂しました。
しかし神は動じません。
人間と精霊の恋。その間にあるものが真実の愛でなければ、いずれどちらも不幸になってしまうことを神はよく知っていました。だからこそ言わなければならなかった事を、神はわかっていましたし、精霊だって本当はわかっていました。
神はその場に崩れる精霊に優しく言いました。
「案ずることはない。かの者が真にお前を愛しているならば、次の満月の晩に全ては上手くいくだろう。」
そしてその満月の晩。
人間は社に姿を現しました。
精霊の居ない、悲しそうな顔で佇む神が居るばかりの社に。
立ち尽くす人間に、神は物悲し気に告げました。
精霊がもうどこにも居なくなってしまったことを。
精霊は逃げたのでした。
ただ何よりも、愛する者が自分を選んでくれないことを恐れて。
もしも人間が来てくれなかったら。精霊である自分を受け入れてくれなかったら。
それは精霊にとって何よりも、死ぬよりも、ずっとずっと恐ろしいことでした。
満月に照らされる、恋人の居ない社を想像するだけで気の狂いそうになるのでした。
だから精霊は逃げたのでした。
何も見なくていいように。辛い現実も、幸せな思い出も、何も見なくていいように。
その後、精霊はどこに行ったのか誰もわかりませんでした。
でも、もしかしたら今でもこの街に居て、偶に社のほうを見上げているのかもしれない。そういうお話は、この街に今でも沢山残されています。