終わったら、帰ってくれて良い。
疲れただろうし、今日は暑いから。
幸村はそうLINEしてくれたけど、千百合は帰る気にならなかった。
こんなにいろいろ感じて、いろいろ思ったのは久しぶりだった。
久しぶり過ぎて、ちょっと疲れたくらい。
でも、かといって外にずっといるのは暑くて堪らないから、千百合は引っ込んだ。
美術室に。
「・・・・・・・」
誰も居ない。
此処に来るたびに誰かしらー--少なくとも幸村は居たけど、今日は本当に誰も居ない。
電気が付いていなくて、でも真夏の日差しだけ入る美術室は、明るいような暗いようなきついコントラストで千百合を出迎えてくれた。
今の自分の気持ちに似ていて、何だか落ち着いた。
足を進めると、絵が置いてある。
あの空の絵。
千百合が気に入って、幸村がずっと進めていた空の絵だ。
「・・・・完成したんだ。」
なぜわかったのか。
右下にサインが入っていたからだ。今度は見えるところに。
絵はきれいだった。
初めて見た時以上に眩しく、美しく、抜けるような青空をそのまま写したかのようだった。
でも、もう千百合はこの絵に向かって、ただきれいとだけ思うわけじゃない。
本物を見たから。
本物を知って、幸村のことも知って、彼がどんな気持ちで描いていたのかまで考えてしまうから。
「・・・・・・・ん-・・・・・・・」
千百合は目を閉じた。
考えるのは嫌いだ。面倒だししんどいし。
でも、考えてしまう時がある。
気になって気になってしょうがないことがあるとき。
「黒崎さん?」
振り返ると、いつの間にか幸村が背後にびっくりした顔で佇んでいた。
全然気づかなかった。
扉を開ける音が聞こえていなかった。
幸村は目が合うと、嬉しそうに微笑んだ。
「帰ってなかったんだね。」
「・・・・ちょっと、気分的に。」
「あははっ!そうなんだ。今日は、見に来てくれてありがとう。前列に居てくれたのが見えたよ。」
「うん。」
「どうだった?怖くなかった?」
「怖い?」
「たまに、怖いって言う子も居るんだ。ボールが速いし、当たると痛いし。フェンスがあるから基本的には当たらないけど、女の子はやっぱりちょっとね。」
「へえ。」
そういうもんなのか。フェンスあるから良いじゃないか。
と思っているのが顔に出ていたのか、幸村はおかしそうに笑った。
「怖くなかったなら、良いんだ。呼んでおいて、怖い思いをさせるなんて酷いしね。」
「それ。」
「うん?」
「私、今日なんで呼ばれたの。」
別に理由がないなら、ないで良かった。
でも、あるのなら知っておきたい気持ちもあった。
千百合が聞くと、幸村は一瞬目を丸くして、すぐに目元を緩めた。
「正直、俺も上手く言葉にできなくて。」
「ふうん。」
「そうだな、でも強いて言うなら・・・・」
・・・黒崎さんに、好きになって欲しかったんだと思う。」
今度は千百合が驚いて目を見開く番だった。
「黒崎さん、言ってくれたよね?俺のこの絵が好きだって。気に入ったって。」
「・・・・うん。」
「俺は、あれが嬉しかったんだ。多分、黒崎さんが想像してるよりずっと。俺が描いたっていうことを差し引いて、俺の絵が好きだって言ってくれる人は珍しいから。」
実際に自分が描いているんだから、どうしようもない。
それは重々知りつつも、幸村の芸術家としての面は、いつもやるせない思いだった。
自分じゃなくて、作品を見て評価して欲しい。
そう思っていた。
千百合は、それを叶えてくれた。
たまたまでも良い。幸村は嬉しかった。
「黒崎さん、何度も来てくれたよね。」
「・・・・うん。」
「俺はいつも、見てもらって、少しおしゃべりして・・・それも楽しかったけど、同じくらい嬉しかったんだ。黒崎さんが、黙って見ていてくれることが。本当に気に入ってくれてるんだなってわかったから。」
「・・・・・・」
「ふふっ。嬉しくて、たまに意地悪もしちゃったけど。」
「は?」
「俺が話しかけたら、たまに嫌そうな顔をしただろう?今見てるんだから放っといて、って顔でさ。俺はそれが嬉しくて、黒崎さんのそういう顔が見たくて、たまにわざと話しかけてたんだ。ごめんね?」
「はああああ・・・・?」
「あははっ!ごめんね?悪かったよ本当に。いけないって思ってたんだけど、つい。」
「ついじゃねえよ。」
「あははははは!」
すごく笑ってる。
にこにこしつつも食えない奴だなとはなんとなく察していたけど、どうやら本当だったようだ。
「もう帰って良い?」
「ふふふ、ごめんね本当に。でも、それくらい嬉しかったんだ。それは分かって欲しい。嬉しくて・・・だから、最近はもっと欲張りになっちゃって。」
「?」
「絵じゃなくて、俺のテニスを見てもらえたら、黒崎さんはどう思うんだろうって。そう考えるようになったんだ。」
もちろん、絵が好きになったからって、テニスだって同じようになんていかない。
全然別物だからだ。
でも、好きになってくれるかなと思った。
いや、もっとちゃんと言うと。
「好きになって欲しい、って思った。」
「・・・・何を。」
「テニスを。それから、テニスをする俺のことも。」
美術室に入り浸るのも、それはそれで幸村の一面ではある。
じゃあ、他の一面は?そこを見せたら、千百合はどう思うんだろうかと思った。
思ったら、確かめたくなった。
だから呼んだのだ。
「どうだったかな?」
「え?」
「俺のテニスは。」
そう言って千百合を見る幸村の目は、優しさを湛えながらも至って真剣だった。
そして、真剣な人を茶化す趣味は千百合にはなかった。
だからちゃんと返事するべきだということはよくわかっているのだ。
わかっているけど。
「・・・・・・」
「黒崎さん?」
視線を横に逸らす千百合に、幸村は訝し気な声をかける。
持ち前の察しの良さで察してくれないだろうか。
いや、流石にこれは無理かな。
「・・・・今日見る時。」
「?うん。」
「結構前の方行くの苦労して。」
「ああ・・・ごめんね。呼んでおいて見られないことになったら申し訳ないと思って、俺が出ることは伏せておいてもらってたんだ。だから、あれでも少ない方ではあるんだけど。」
「マジかよ。」
ということは、通常時はもっと人が居るのだ。
冗談だろ。そうなったらもう絶対見られない。
「居心地が悪かったかな?」
「うん。」
「ううん、ごめんね。困ったなあ、何かやり方があると良いんだけどー--」
「次から関係者席で見せてよ。」
「え?」
「あったでしょ。ベンチの横とか後ろとか。」
「いや、あそこに居たのはマネージャーで・・・」
ああ言ってしまった。
どう言おうか迷ってたけど、言えそうだったし半分勢いで言ってしまった。
幸村も言葉を切ったし、多分千百合が何を言いたいのかは察してる。
できるかは知らない。
やったことないから。
でも、やってみたい。
きついのも暑いのもしんどいのも、苦労も努力も大大大嫌いだけど。
でも、それを乗り越えればまたあの空が、幸村がテニスする景色が見られるんだったら、やってみようかと思った。
「・・・本当に良いのかい?」
「人のセリフ取らないで。」
「それはもちろん、俺は大歓迎だよ。でも正直、絶対無理だと思ってて。部活とか面倒、って前に言ってたから。」
「それは今も思ってる。」
「あはは!・・・本当にありがとう。嬉しいよ。」
「あんたも変な奴よね。」
「え?そうかな、どこが?」
「自分の絵を気に入るかどうかで、マネージャーに誘うかどうか決める辺りが。」
「別に、それだけで決めたわけじゃないよ。」
「嘘だ、他に選ばれる理由見当たらないもん。」
「俺が黒崎さんを好き、っていう一番大きい理由は?」
それはまだ信じるに値しない。と千百合は思った。
この男は、確かに優しいけど反面で底が知れないから。
だから、いつか信じられたらそれは悪くないな。
と思ったのは、秘密。