それからのことは、丸井は今振り返っても、正に夢のようだったと思う。
紫希と過ごしたのが24日。
紫希が英国行きの船に乗ったのが25日。
丸井は結局、紫希に会うことなく、紫希の帰国の日を過ごした。
どうやって過ごしたのかは、よく覚えていない。
ふと気づいた時には、紫希は消えていた。
共通の友人だって沢山居たが、皆が紫希の帰国をどう感じたのか知らない。聞いたり話したりした記憶がない。
もしかしたら、そんなこと話してなかったのかもしれない。
見合いは行った。
相手は本当に、美人で気立ての良い娘だった。
妻として女として不足のないその娘との婚約は、実にとんとん拍子としか言いようのない早さでまとまった。
丸井は裕福になった。
出世街道にも乗った。
別に悪いことがあるわけじゃない。
悩みも無い。
ただ、どこか他人事のように自分の生活を見ているような感覚は、確かにあった。
紫希は何をしているんだろうか。
折に触れて考えたけど、できることはなかった。
憲兵の身で、日本を長く空けて英国に行くこともできなかった。
手紙はどうかとも思ったけど、いつも思うだけで、実際に時間は取れなかった。
そのくせ、思うだけは頻繁に思った。
不思議なことだが、友人ーーー例えば千百合や紀伊梨や忍足だって、ここ2、3年の間に卒業したはずだ。
でも、卒業してその後どうしてるのか、丸井はわからない。
結婚はしたものの、妻は子供をなかなか授からなかった。
時代や家柄上、普通気にすると思うのだが、妻もその家族も、そこはさして気にしていないようだった。
変と言えば変だったけど、丸井にとっては助かることでもあった。
今授かっても、いまひとつ現実感が無いような気がしたし。
この日もそうだった。
相変わらず希薄な時間の流れの中、帰宅すると、妻は花瓶に花を生けていた。
「お帰りなさい、あなた。」
「おう・・・それ何?」
「それ?」
「その花・・・」
「ああこれ。お父様が、手に入ったからってくださったの。欧州の花で、確か名前はーーー」
知ってる。
丸井は、その花を知っている。
覚えている。
色の白さも。
英国に咲いていることも。
冬でも花が開くことも。
教えてくれたあの人が、どんな顔でどんな恰好で、どんな姿勢で、どんな声で丸井に教えてくれたのかも。
『これは、Chrysanthemum・・・ええと、洋菊です。』
『「菊を見たら英国を思い出してね」って・・・』
思い出すことなんてない。
いつも思っているから。
覚えているから。
だから、改めて記憶の引き出しから出さないといけないことなんてないんだ。
今でもずっと、自分はあの時のことを抱えたままだから。
ぽろ、と無意識に涙が一筋落ちたのと、目の前にいたはずの妻の黒い目の色が、深い紫に変わったのは同時だった。
「ーーーーおはよう。」