5周年記念企画:クリサンセマムの口づけ後編 - 9/9


「ーーーーー!」

ガバッ!と音を立てて、丸井は跳ねあがるように上体を起こした。

心臓が高鳴っている。
全身冷汗でびっしょりだ。

周りを見ると、そこは婿入りして住むことになった豪邸の寝室ではなかった。
実に見慣れた、兵舎の1室だった。

日めくりの暦。
今日は12月25日。

日が高い。
おそらく、出航まであと3時間ほど。

丸井は部屋を飛び出した。








「(丁度良かったじゃないか。)」
「・・・・・・・」
「(・・・悪い。さすがに、今のは失言だったな。)」

紫希は、丸井のことが好きだった。

正確に言うと、好きなんだろう、と思う。
自覚したのは、丸井に見合いの話が出ているのを知ったときだった。

友人なら喜んで然るべき場面で、紫希はどうしてもおめでとうと言えなかった。
言えない自分に衝撃を受けた。

でも、もう遅いこともわかっていた。

兄はおそらく、紫希が自覚する前に、兄の勘のようなものでなんとなく気づいていた。
ほぼほぼ失恋決定のようなものであることも。

幸い、まだそこまで入れ込んでるわけではないし、入れ込むのに必要な時間もこれから取り上げる。
失恋したのなら、帰国も促しやすい。

丁度良かったじゃないか。と思ったのは本当だが、言ってしまった後で、流石にひどすぎたなと反省した。
妹に向かって、失恋して良かったな、なんて。
ただでさえ紫希は今、参っているのに。

そう、紫希は参っていた。
いろんなことが一度に起こり過ぎて、もう処理しきれなくなっていた。

丸井はおろか、千百合や紀伊梨のような友人にも、一言のお別れも言えていない。
流石に兄というか、紫希を混乱させて連れ帰るには、とにかく早さが大事なのを心得ていた。考える隙間を与えないこと。

今頃級友たちは、風邪か何かかなと思っているのだろう。
あの担任は、今日帰りがけに千百合や紀伊梨を連れて、ちょっと家に寄ってみようかとか思ってくれてるかもしれない。

丸井からのつながりで、憲兵にも顔見知りができた。
二度と紫希の顔を見ることは無いと、彼らが気づく頃には、多分2週間くらいかかる。

「・・・・・・・・」

涙が滲んできた。

もっと此処に居たい。
でも、居てどうするんだと言われたら、紫希はやっぱり明確な答えを持たないのだ。
居ることが一番の目的だから。
その後どうすれば良いか、紫希は未だにわからない。

自分だけが、わからない。








「すいません!すいません・・・うお!」
「おい、あぶねえぞ!」
「悪い!」

人混みをかき分けながら、丸井はちょっと面白くなってきた。
朝起きてから、ほとんど謝罪しか口にしていない。

道路を走っている時は、何人かが「師走にあんな薄着で・・・」とちょっと引いた声を出していたのも聞こえてきた。
でもしょうがない。
朝から走って謝って走って謝って、その繰り返しだから暑くてしょうがないのだ。


ボオオオオ!


「・・・・!」

蒸気管の音がする。
これが鳴り出しても即出航じゃないが、いよいよ秒読みであることは間違いなかった。

この時代、船はまだ珍しい。
だから、用事もないのに見世物としてただ見に来る人間というのも多くて、丸井は余計に苦労する。

でも足を止めるわけにはいかない。
止めたらどうなるか、自分はもう知っている。
夢に見たから。

別に悪い日々じゃなかった。
それは本当だ。
紫希が居なくても、自分はそれなりに幸せに生きられる。

でも。
それはどんなに頑張っても、それなりでしかない。

後から思い出して、振り返って、一番幸せだったときは、友人が居て仲間が居て、そして紫希が居た9ヶ月間だった。
そんなことをずっと思いながら死ぬまで生きていくなんて、そんなくだらない人生を生きたくない。
たとえ、金持ちになって地位を手に入れても。あんなふわふわした、地に足の着かない日々を過ごさないといけないのなら、ごめんだ。

でも、今なら変えられる。
誰かがくれた、最後のこの僅かな時間を、もう一度無限に戻したい。




「ーーー春日!」








「・・・・・!」

紫希は、声が聞こえてきた気がして顔を上げた。
兄は気づいているが、黙っている。もう船と桟橋を繋ぐ連結路は閉じたから、今更降りられまいと思っているのだろう。

紫希もそれはわかっているけど、身を乗り出さずには居られなかった。

今日は仕事を詰め込んでると聞いていたから、最後に顔を見られるのなら、奇跡のような幸せだ。

もう二度と会えないのならなおさら。
昨日ろくに見られなかった顔を、焼き付けて英国に戻りたい。

(・・・・・戻りたい?)

嘘だ。
本当は戻りたくないんだ。

此処に居てどうしたら良いかも分からないくせに、ただここに居ることを今でも望んでいる。

どうして。どうしてこんなに、時間が無いんだろう。
少なくとも卒業まで、あと1年。あと1年、時間はあったはずなのに。

そう思うと視界が滲んで、丸井が見えなくなるようで、紫希は目を擦る。






(あいつ・・・)

その姿を、丸井も見上げていた。

泣いてる。
襲われても迫害されても、死が目前に迫った時でさえ絶対に泣かなかった、あの子が泣いている。

それで十分だった。

どうしたら良い、とか丸井は考えない。
出航直前のこの時間で、どんな言葉なら、とかそういうことも考えない。

ただ、自分達の望みは同じなのだということだけ信じている。

自分も、紫希も、まだ子供で居たい。
このままで居たい。

遠い未来の話なんかしたくない。
今をもっと続けたい。
どうしても続けられなくなったその時になる頃には、きっと。
きっと自分達は、掛け替えのない存在になれる。

だから。


「ーーーー来い!」


周り中がぎょっとした。
誰かは知らないが、この赤毛の男は、今まさに乗船している客に向かって、飛び降りろと言ってるのである。
上手く捕まえられても、大けがは免れまい。

馬鹿じゃなかろうか、と皆思った。
丸井もそう思う。

でも、不思議と上手くいく気がするのも確かだった。






「Foolish(あいつ)・・・」

紫希の兄も、同じことを思った。
馬鹿だ、あの男は。

でも、紫希は馬鹿だとは思わなかった。
他に方法もないし、それに。

(どうして・・・?)

なぜか、上手くいく気がするのだ。

「・・・・Brother.(兄さん)」
「What?(何だ?)」

「Sorry.(ごめんなさい)」

え、という呟きのような声が漏れるより早く、紫希は手摺に足をかけて。


飛んだ。


はっきり言って、紫希は運動神経が悪い。そもそも高い所も怖いし。
だから、飛ぶと言ってもほぼ落ちたようなものだった。

桟橋まで届かない。冬の海に着水する。
見ていたほとんどの人間がそう思う中で、紫希は何かが自分の背を掬い上げたのを感じた。

誰?

そこに人なんか居るはずがないのにそう思って、振り返ろうとしたら突風が起こって、紫希は目を瞑った。
紫希だけじゃない。
船上の人間から港の人間まで、皆例外なく、あまりに強い風に目を閉じた。


丸井だけが目を開いていた。


「きゃあっ!」
「ーーーっ!」

両腕に衝撃がかかって、丸井は尻もちをついた。

両手が使えなかったので、本当に腰だけで着地してしまったけど、それでも上体が倒れない体幹の強さは、流石に軍人。

「いって・・・・」
「・・・!す、すいません大丈夫でーーーえ?」

慌てて退こうとしたら、腰をしっかり拘束されたので、それは叶わなかった。
丸井は嬉しそうだ。

「捕まえたぜい?」

丸井がそう言って紫希の顔が赤く染まると、周囲がわっと沸いて、拍手や口笛を吹き出した。

よくわからないけど、何かきっと、良いことが起こったのだ。
それだけは、皆に伝わった。









「・・・・・・・」

船上でも似たようなことになっている中、紫希の兄だけは、へなへなと膝をついた。
情けないとは思うが、信じられなくてそれどころじゃなかった。

下船してしまった。
妹だけが。

もう乗り直せない。
自分が降りることもできない。
嘘だろ。

処理しきれない現実を目の前に、半ば無意識で港を見ると、妹は赤い顔で、丸井と周囲と、船上の自分の3つをきょろきょろ見ていた。

「・・・・・はあ。」

もう駄目だ。どうしようもない。隣の老婦人が嬉しそうに立てる手拍子の音が、大きく響いて仕方なかった。








騒ぎが治まって、人の輪から出て2人になっても、紫希は半分呆然としていた。

「え、え・・・丸井さん、お仕事は、」
「今日は休み。ってことにしてきた。」
「ええ!?」
「あと、見合いも断ってきた。そんで遅くなっちまったんだけどさ。悪い、無茶させて。」
「えええええ!?」
「ははははは!」

自分より狼狽えている紫希の顔がおかしくて、丸井は笑いが止まらなかった。

別にそれでいい。
今は笑う時間がある。
これからも、時間はある。

「学校行くか!」
「え?」
「手続きしねえとだろい?お前の兄ちゃん、退学手続き進めちまったし。」
「ああ、ええ・・・そう・・・」

そうか。
それで良いのか。

「・・・・私、」
「うん?」
「また、学校に通っても良いんでしょうか?」
「良いと思うぜい?もし学費とか止められたら、働くか?卡薩布蘭卡亭とかで。」
「・・・・!はい、ぜひ!」

紫希はじわじわ実感がわいてきた。

まだ日本に居られる。
居て良いんだ。
皆と。丸井と。

「・・・・ふふっ。」
「うん?」
「あ、ごめんなさい・・・嬉しくて。おかしいですよね、もしかしたら、実家から勘当されるかもしれないのに・・・」

勝手したことには違いない。
おそらく今回の件は、両親というより兄の独断の強行だが、それでも紫希の振舞に対して親が何と考えるかは、総合的に考えて五分五分だった。

「やっぱ、止めとけば良かったって?」
「うふふ。いいえ、良いんです。私、子供なので。もっと日本に居たいですし・・・」

それに。
もっと丸井と。

そう口に出すのは流石に憚られて言葉を切ると、丸井はそっか、と軽く返事をした。

「ま、俺も憲兵だしな。」
「憲兵?」
「そう何度も何度も、逃げられちゃ困るだろい?特に、最初は上手い事逃げられたし。」
「・・・!あの、あれは本当に申し訳ないと思っていて、すいません私足が遅いものですから、他に方法がーーー」

紫希が言い募っていると、ふいに腰に手が回って、いつか見た光景が見えた。

あの時、丸井の目は開いてるはずなのに、驚きで何も見てないような目つきだった。
今は違う。閉じているのに、まるでじっと見られているような気がする。

数秒間の2回目の口付けは、初めてのときよりも心臓が高鳴った。

「・・・・・丸、」
「言ったろい?捕まえたぜ、って。」

傍に居て欲しい人を逃がすのは、すでに一度やっている。
さっきもやりかけた。

もうやりたくない。
もう二度と。

「少なくとも当分帰りません、って手紙出しとけよ?」
「・・・・はい!」

遠く離れた廃墟の庭では、冬の日差しを浴びてクリサンセマムが笑っている。