「はーあ。」
千百合は相変わらず俯き加減にガンガン進んでいた。
最早意識は山頂のホテルにしかなく、その点においては千百合と郁は共通しているとも言える。ただ、千百合は郁と同じ失敗はしない。それが千百合の要領の良い所。
例外はあるが。
「千百合。」
振り向く前にクン、と腕を引っ張られる感覚がした。
トン、と背中から抱き留められて、視界の端に見慣れた濃紺の髪が揺れたのが見えた。
「精市、」
「千百合、前を見てご覧。」
「前・・・!?」
心臓が止まるかと思ったというか、千百合的には実際止まったと思った。
足元に注意していて気が付かなかった。
眼前には昨今なかなかお目にかかれない、馬鹿でかい蜘蛛の巣とその巣の主。
「さっき桑原とすれ違っただろう?教えてくれたんだ、千百合が急ぐあまり道の外側を歩いてるからって。そういう所は虫が居たりするから。急ぐのは良いとしても、人が邪魔だからってあまり踏み鳴らされてない所を歩くのは止めた方が良いよ。転ぶと危ないし、こういうものにぶつかるしね。」
「ありがと、もう二度としない。」
「・・・ふふっ。」
即答且つ早口な口調が、如何に今の千百合が追い詰められているのかを物語るよう。
幸村からすると、山なんだしこのくらいの大きさの蜘蛛くらいはね程度にしか思わないのだが、やはり嫌いな人間にとってはより大きくより恐ろしく写るのだろう。
こうして話している間にももう蜘蛛の所を通り過ぎて後にしたというのに、未だに振り返って距離を取ろうとしている。
「千百合は本当に可愛いね。」
「今足を踏み外して妙なものにぶつかったら、それは精市のせいだからね。」
今、千百合は世界で一番嫌悪している物に対する警戒心で頭がパンパンなのである。
幸村なら多少の虫は平気でも自分はそうじゃない。もう、其処に居ると知覚するだけで嫌。こっちに向かって来なくても遠く離れていても嫌。絶対嫌。
そして絶対嫌だから警戒心はそのままにしておくべきで解いてはいけないのに、幸村はこういう時自分の集中力をかき乱す天才なのだ。100%の警戒心で占められている自分の脳内が70%位になって、30%くらいはどうしても幸村に持って行かれてしまう。
そしてそこまで想像のついている幸村は、尚もますます千百合を好きになるのだ。
「可愛いだけじゃなくて愛おしいよ。」
「あのね。いい加減にしないとそこから突き落とすからね。」
「あはは!ごめんごめん、ついね。」
何がどう「つい」なのか、聞きたいような聞きたくないような。いややっぱり聞きたくない。
「じゃあお詫びに。」
「・・・・何この手は。」
「繋いでてくれたら、俺が虫を払ってあげられるから。」
千百合は、幸村を相手にしたい気持ちと虫のスルーがどうしても出来ない気持ちとで板挟み状態なのだ。だから、自分の傍に居て自分が虫に気をつけておいてあげれば千百合は虫の事を気にしないで自分を見てくれるという、正に幸村的には合理的且つ誰も損しない提案なのである。
幸村的には。
「・・・いや、遠慮しとく。」
「そう?どうして?」
「絵面が嫌。」
「絵面?」
分からないだろうか。
だって、それって光景として言えばお手て繋いで山登り状態だぞ。
状況的に今だけと言うんじゃなくて、登りきるまで警戒は緩められないからその状態で登頂しないといけないんだぞ。何それくっそ恥ずかしい。死ぬ。それが許されるのは千百合の中では小学校低学年までだ。
かといって。
「ううん・・・じゃあ、俺は此処から先行しておくよ。退けられそうな虫は退けておくから、千百合はあんまり急ぎ過ぎないでゆっくり来れば良い。」
「あ、いや。」
「嫌かい?俺が後ろの方が良い?確かにそっちの方が、さっきみたいな時は助けやすいけれど。」
「いや、あの・・・・」
「?」
違うんだ。そうじゃないんだ。
確かに話しかけられると今の状況ではある意味困るし、幸村が先行してくれたら自分は恥ずかしい思いも虫に対する怯えも無く登山できるだろうけど。
でも違うだろ。そうじゃないだろ。
こういう時、滅多に無い事だが千百合は自分で自分が大嫌いになる。
常日頃はっきりしろとか人に言うくせに、自分はこういう時ハッキリできない。相手の意見を却下するけど、代替案がなかなか出て来ないのだ。
ああ、嫌。自分が嫌。
なんでこういう時自分の脳味噌は急に音を立てて回転を鈍くしてしまうんだろう。
「・・・良いから。」
「え?」
「何もしないで良いから。」
「何もしないでって、」
何もしないでと言うと、このままになるけど。
と言いかけて幸村は気づいた。
「・・・・・・」
「何笑ってんの。何よ、言いたい事あるんなら・・・」
「言っても良いのかい?」
「・・・・・」
「ふふっ、心配しないで。山頂に着いてからにするから。」
「多分それ、山頂に着くまでに忘れてくれて良いやつだから。」
「俺は忘れないでいたいから、忘れないで居る事にするよ。」
ああ言えばこういう、と呟く千百合の顔はほんのり赤い。
ああ可愛い。なんて可愛いんだろう、自分の恋人は。
このままで山頂まで行くとか言うけれど、千百合の虫嫌いは筋金入りなのである。その嫌がりぶりたるや、基本的に形振り構わない。一も二も無く嫌。それくらい嫌っている。
でもその為には自分が一緒に居ない方が都合が良いからと言って離れようとしたけど、このままで良いと言うのはつまり離れて行かれるのはもっと嫌だから多少虫に怯えるのは我慢しますと言ってるのだ。
可愛すぎて今すぐ大好きと言いたいけれど、今言うと間違いなく千百合の邪魔になるからちょっと我慢。そう、山頂までね。
「さあ。」
「ちょ、」
「行こうか。」
千百合の右手はあっさり幸村の左手に捕まった。
「だからこれは、」
「分かってるよ、この状態を俯瞰で見られるのが嫌なんだろう?だから今だけ。前後に人が居ない時だけだから。前か後ろに誰か見えたらすぐ離すよ、約束する。」
「・・・・・」
今生徒全体の位置分布的に、紫希とほぼ真逆の位置に居るのが千百合と幸村なのである。
所謂先頭集団。早過ぎて周りにほぼ人が居ない。大体の人間を後ろに置いて来ている立ち位置なので、少なくとも今この瞬間は他に誰も見てないでしょと言われればそれはその通り。
「ね。」
「・・・・・」
「行こう。ペースも無理のない範囲で早めにするから。」
「・・・わかった。」
そして山頂まで着いたら今度こそ言おう。
今我慢している大好きを。